ちゃぷん


夜の湖は不気味だった。暗くて辺りが見えない森の奥にひっそりとある湖に訪れた。周りは森林に囲まれ、足元は昨夜降った雨をまだ含んだぐちゃぐちゃな土。スニーカーの裏に泥となって張りついて、足が少し重く感じる。まだぐずついている空模様に自分の影がぼやけて滲む。月などない。灯りも人影もない。風も止み、あらゆる生物の蠢く音に鳴き声がどこか遠くの方から聞こえてくる。

昼とは違う顔を魅せる。湖の中に何かの生き物が動いているみたいで、ゆらゆらと水面が揺らぐ。波紋は静かに伸びる。誰にも言えない夜の仕事をしている。お酒を呑ませて、話を聞いて、ちょっと身体にすがってみたりもする。話を合わせる為に新聞は欠かせないし、携帯の閲覧履歴は政治記事ばかり。もしかしたら一般人より政治に詳しいかもしれないが、なんとも言えない。

息を吸い込めば清々しいと思えた。真っ黒な肺に、硬くなった肝臓。ボロボロな臓器が若返ったような錯覚すら覚えた。湖の周りは転落防止の貼り紙があるだけで、無防備。少しだけ湖に近づいてみた。しゃがみこんで、中を覗く。ふわんふわん、と揺れる水面。そこに映った自分は暗くてよく見えない。まぁ、自分の顔なんて興味なかった。下地クリームにあれこれ淡い色を乗せられた顔なんて。外面だけが取り柄だったのに内面の醜さが滲み出てきた頃だった。可愛げなんて無かった。

ふらり、立ち上がってスニーカーの裏についた泥を落とそうと思った。わたし、ここになにしにきたんだろう。手近な草むらで塗り付けるように泥を落とそうと試みた。ある程度は取れた。だけど、どうも納得できない。すべてを取り切ろうなんて思ってはいないが自分の満足いくまで綺麗にしたくなった。ああそうだ、タバコがきれたからかいにでたんだっけ。

昼夜逆転になった生活。今日は久しぶりの休暇だったのだけれど、起きたら夕方で次の休暇に行こうと思っていたレストランのランチは終わっていて、一気に休暇が無意味なものになってしまった。グダグダと、録画だけしていたバラエティー番組でも見ようと思ってテレビを付けたけど、ちょうど国会中継がされていたから気付いたら食い入るようにしてみていた。それから録画した番組を見てみたが、どれもテレビの中だけで楽しんでいて、何一つ面白くなくて、自分の感性を疑った。なんだか無性にむしゃくしゃして、落ち着こうと思ってタバコを手に取ったら空っぽ。こんな時に限ってストックしていたタバコもない。仕方なく、太陽がすっかり沈んだ時分。いわゆる出勤時間に車のエンジンを吹かした。

ぶらっと遠くのコンビニまで行き、タバコのダースだけ買おうと思っていたらレジの店員さんが思いの外、自分の好みの男性で、買う気はなかったのに、レジ横に置かれていたいちご大福をひとつ買った。ちょっとだけ気分が良くなって、だけどやっぱりいちご大福なんて買わなくても良かったな、ってちょっとだけ後悔して、真っ直ぐ家に帰りたくなかったから地元で有名なこの湖になんとなく寄った。

そうだ。ヒラメキのように思い付いて、湖に近づく。縁のぎりぎりに立って片足を放り出した。スニーカーの裏だけを上手く水面につけて洗い落としてしまえおうと考えついたのだ。バランスを取りながら慎重に足を水面におろす。表面張力のような張り詰めた感覚がスニーカー越しに伝わってきた。フラフラと左右に揺らして波紋を作る。変な虫の音が響く。パシャパシャとなるべく音を立てずにする。

汚すのは簡単だけれども、汚れを落とすのは大変。といった、あまりにも不明瞭かつ理不尽な仕組みに自然になってしまっている事実。詰まらなくなって、泥を落とすのをやめた。こんなことをしたって、何になる。私はこんなところで休暇を消費するはずじゃなかった。そうは嘆いてみても、行きたかったランチに行ったあとをどう過ごそうとか、これっぽっちも考えていなくて、フラり、下手に雑貨屋とかに入ったら後悔する買い物ばかりしてしまう落ちだと目に見えている。正直なところ、たった1日の休暇でなんにも出来ないことくらい、足りない頭でも分かっていた。

ああもう、どうでもいい。

ここで一服しようとポケットに手を入れて、買ったばかりのタバコは封を切らずにイチゴ大福と一緒のコンビニ袋の中にあることに気が付いて舌打ち。そんな私を嘲笑うかのような虫の音。掻き毟りたくなった髪の毛。街の雑踏に慣れていたつもりなのに、そんなことはこれっぽっちもなかったみたいで私を苦しめる。

イケメンの名前が書かれたレシートを大事に二つ折りにして財布にしまったところでなんだって言うのだろうか。高級そうな紙に書かれた名刺みたいに意味がないことは知っている。アホ丸出しの自分の名前だけ、踊るような文字で書かれた自分の名刺の裏にこっそり書くハートマークつきの「また来てネ」の文字。

月明かりもままならない。周りの木々が背伸びをし、頭を集めて湖を覗き込んでいるみたいで、水面に月が映らない。所詮、こんなもんよ、と毒が出た。

私は湖に足を浮かべた時に、何かが湖の中で私の足を引っ掴んで、そのまま身体ごと、この湖に飲み込まれて。そんな妄想をした。なんとも幼稚くさい発想。だけど、ドキドキ胸を締め付けられているような錯覚に陥った。低レベルなロマンチスト。そんな真似事をして女子力向上を目論む。

肌が粟立ってきた。外の冷気に晒されすぎた。もうかえろ。グルリ、と踵を返し、森林に紛れる。はやく、ニコチンを身体に与えないと正気じゃいられなくなってしまう、なんて適当に考える。もしかしたら、湖の中から手が出てきて、私を見送ってくれているか呼び戻そうとしているかな、なんて勘違いして振り替える。そんなことない現実が突き詰められる。ニコチンを欲した。


ちゃぷん。

何もないのに水面が不気味に音を立てた。







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