無音
なんとなく消さなかった電話帳に記録されたまま彼の名前が、急に音と光を放ちながら携帯画面に浮かんだ。
久しぶり、元気だった?、俺は去年の秋に盲腸で入院したよ、来月から転勤だ、最後に会えないかな、ごめん突然、迷惑だよね。
なんてことない会話。彼が一方的に喋ってばかりな気がして、なんにも変わらないその姿勢に思わず、ふふっ、と笑えば、彼は笑いながらまた、ごめんと言った。
私と彼の出会いは雨の日。時間が夜中で、閉店してしまったカフェで雨宿りしていたらあの人がカバンを頭に乗せて走ってきて、こんばんは、ひどい雨ですね、まさかこうなるなんて思いませんでしたよ、それにしても突然でしたね、雨、いつまで降るんでしょうか、彼が一方的に話し掛けてきた。スーツの肩をしっとり湿らせて、ヘラヘラ、笑って、こんな雨の日なのに、濡れ鼠になっているのに笑っている、そんな彼に惹かれていくのに時間はかからなかった。だけど、それと同じくらいにダメなところも分かって、別れるのも時間はかからなかった。
相づちだけ打つ私に、彼は何も思わないみたいで、淡々と話が進む。別れて一年と三ヶ月。その間に恋愛なんかしていなかった。もしかしたらそれより前からずっと恋愛はしていないかもしれない。
なんの拍子か分からないが、明日食事をする事になっていた。美味しいパスタを食べさせてくれるお店がここら辺でオープンしたらしい。待ち合わせは、あのカフェなんて、どうだい。私は、ふふっ、と笑わずにはいられなかった。
どうして、わざわざそのお店をチョイスするのか、そこに浅かろうが深かろうが意味があることを察していたから、私は断った。
どうして突然電話してきたの?、もう私はあなたの事は忘れたの、電話帳からだって消してたし…、あなたも私の事は忘れて、電話帳からも消して、迷惑なの、ごめんなさい、もう掛けてこないで、さようなら。
私は一方的に喋り、携帯をソファに放り投げた。二、三度そこで跳ねて、それからガツンと床に落ちた。
傷、つけたかもしれない。
なんとなく、彼の顔が浮かんだ。
明日なんて、来なくてもいいんじゃないの。そんな可愛くないことを考えて、ふふっ、と笑って窓の外を見た。
明日は晴れそうにもなかった。