11.日は昇ってまた沈む

 何を考えることもなく、ひたすらにあの場所から離れた。延ばした蔦が空を切り、体を地面に強く打ち付けて、やっと動くのをやめた。激しく上がった息と、これでもかという程速く脈打つ心臓のせいで周りの音は聞こえなかった。
 そのまま地面に体を預け、目を閉じて呼吸を落ち着けた。少しずつ森の音が聞こえてくる。
 熱くなった頭も徐々に冷静さを取り戻し、オレは目を開けた。むくりと体を起こし、ここは何処だろうかと辺りを見回した。
 暗すぎて殆ど何も見えない。耳をすませばどこからか水の流れる音が聞こえてきた。少なくとも川には空を遮る木は生えていない。川までいけば少しは明るくなって、どこまで来たのか分かるだろう。
 僅かな明かりと音を頼りに、足を進めた。段々とせせらぎの音か大きくなっていく。森を抜けたそこには見覚えのある風景が広がっていた。
 辿り着いた場所は、あいつと初めて出会った場所だった。無意識にこの場所の近くまで来てしまったのだろうか?もしそうだとしたら、オレは一体どうしたいのだろう。
 頭の中ではあいつの離れなれなければと思っているのに、心はあいつと離れたくないとそればかりを考えている。
 するべき事としたい事が一致せず、どうしたらいいのか分からない。
 自分の息子をこの森から送り出した時と同じ様で違う。ココはオレの息子で、ココの家はこの森だ。だから、長い旅になったとしてもいつかまたきっと会える。
 しかし、あいつはどうだろう。偶然のこの森にやってきて、偶然オレと出会った。あいつの本当の世界は、あいつのいきる世界は、あいつの家はこの森ではない。もしもこの森を去ったら?きっとそれが最後だ。
 短くもない長くもない時をあいつと過ごしてきた。だが、長い付き合いである仲間にも、森のポケモンにも、あいつと居る時のような温かい感情を抱いたことがない。何にも変えられない存在である、あの美しい人間を手離したらオレはどうなってしまうのだろう。考えたくもなくて目を瞑った。
 ぐちゃぐちゃになっているオレの感情とは反対に、オレを撫でる夜風はとても穏やかだった。葉が擦れる音と夜行性のポケモンの鳴き声が聞こえてくる、すんと鼻を鳴らすと、あまい香りがオレの鼻を擽った。驚いて閉じていた瞼を持ち上げた。
 嗅ぎなれたそれは、確かにあいつのにおいだった。僅かに感じる程度で、一度見失えば再び捉えることはできないだろう。もはや、気のせいかもしれないと疑ってしまう。
 家とこの場所はかなり離れているから、あいつがこの辺りに居る筈はない。では一体何が、どこからそのにおいを運んでくるのだろう。オレはそのにおいを辿った。



* * *



「おかえりなさい」



 暗闇の中であいつは言った。痩せ細った月の明かりは頼りなく、あいつがどんな顔をしているのかまでは見せてくれない。それでも、あの銀色の髪だけは、はっきりと見えた。その銀色が自分に一歩近付いて、オレは反射的に後ずさった。オレ達の間を冷たい夜風が通り抜け、ザワザワと音を立てる森の音がオレの心を乱していく。
 あの温もりに触れたい。しかし、またオレの手で傷付けてしまう方が嫌だ。互いが手を延ばしても届かないこの距離が、オレの限界だった。



「分かったわ。これ以上あなたに近寄らない。だからお願い。私の話を聞いて欲しいの」



 放たれた言葉が胸に突き刺さる。
 オレは勝手だ。オレがあいつを拒んだのに、これ以上近寄らないと言われて嫌だと思うだなんて。先に傷付けたのはオレなのに。拳を握りしめていた。



「あなたは私を傷付けたと思っているかもしれない。でもそれは違うわ。……私はあなたを守りたかったの」



 いつの間にか下へと落ち混んでいた視線をぱっとそいつへ持ち上げた。言っている意味が分からなかった。
 紡がれる言葉をオレは必死に追いかけた。
 あいつは言った。


 今まで色んなポケモンに出会ってきた。その中には、人を殺めてしまっまポケモンもいたという。そうして、そのポケモンは決まって『狂暴』になった。傷付けたのは、そのポケモンだ。しかし、彼らもまた心を痛めていたのだ。
 何かの命を奪ってしまった自分の力を恐れた。またそんな自分を見た周りのポケモンたちは、恐怖に怯えた目で自分を見てくる。
 そんな恐ろしい自分に他者が近付かないよう、自分から遠ざけるために、そのポケモンは狂暴に振る舞った。
 また別のポケモンは、仲間に危険だと認知され群れを追い出され、ひとりぼっちで暮らなくてはならないポケモンもいた……と。
 例え、それが仲間を守るための行為だったとしても。



「あなたにそんな思いをさせたくなかった」



 心臓が大きく跳ねた。
 今まで、オレが自分の爪であいつの命を奪いかけた恐怖ばかりを見ていた。
 だが、もしもあの時、悪い人間に自分の爪が届いていたら?どんな人間であれ、あいつと同じ『人間』の命を奪っていたかもしれない。もしもそんなことになっていたら、オレは完全に壊れてしまっていただろう。あいつが今まで会ってきたポケモンたちのように。



「ポケモンと人間はね、体温が違うの。人間の方が高くて、ポケモンの方が低い。
それなのに……あなたの手は温かい」



 暗闇でも目があっているのがはっきりと分かった。



「あなたのその手で何かの命を奪って欲しくなかった」



 何かを傷付ける手だと思って欲しくなかった。オレの爪がポケモンハンターに届きそうになった時、体が勝手に動いていたと、あいつは言った。



「でも私は……あなたにあんな思いをさせてしまった。私のせいであなたを危険な目にあわせてしまった」



 オレは無意識のうちに首を振っていた。
 『もしかしたら』とずっとそればかり考えていた。起きてしまったことを、やってしまった事を悔やんでいた。
 オレ達は互いを守ろうとした。それなのに相手を思って互いに傷付いている。そんなのおかしい。変だ。
 もしかしたらオレはあいつの命を自分の手で奪ってしまったかもしれない。しかし、あいつは今確かに生きている。
 もしかしたらオレはポケモンハンターを殺めてしまって、自分を失い壊れていたかもしれない。しかし、あいつがオレを止めたから、オレは変わらずここにいる。



「私の背中の傷を、あなたは私を傷付けたと思っているでしょう?
でも私はそんな風に思っていない。これは、私があなたを守った傷よ」



 声が震えている気がした。



「だからお願い……。また私の隣にいてくれないかしら……?」



 あんなに怖かったのに。また触れて壊してしまうのが怖かったのに。今は触れたくて堪らない。あいつをまた傷付けてしまう恐怖心が全て消えた訳ではない。恐れる心よりそれを温かい何かが包み込んだ。
 オレは手を延ばして一歩あいつに近付いた。そうか、オレは逃げていたんだ。あの事実を受け入れきれなくて。でも、この人間のおかげで向き合うことができた。受け入れることができた。
 キラキラと輝く銀色の髪を頼りに、一歩ずつ近付いた。暗闇に目が慣れて、近付いて、やっと顔が見えた。そっとあいつの頬に触れると、あいつは目をつぶり、そしてゆっくりまたオレをその目に映した。



「やっぱりあなたの手は温かいわ」



 暗い筈の目の前がチカチカと光った。
 内からわき出る感情が溢れて止まらない。抑える術も見つからなかった。

 オレ達は抱き締めあって眠った。昨日よりも体を寄せて、交わる温もりを感じながら。
 目を覚ますと、美しい銀色の輝きがオレの腕の中にあった。あの時の、物寂しさはなく、幸せという感情で胸が一杯になる。
 あいつはまだ眠っていて、まだ日は昇ったばかりで起こすにはまだ早い気がした。朝飯用のきのみは、ポケモンたちがくれたものがまだ残っているから取りに行く必要はない。もう少しこのままでいたかった。
 それからどれくらい経っただろう。穏やかな表情で眠っていたあいつは、瞼を震わせるとゆっくりと青い瞳を覗かせた。オレをその瞳に映すと、柔らかく微笑みオレの頬に手を延ばすと、『おはよう』と言った。毎日交わしている筈の言葉も、今日はなんだかいつもとは違う。いつもよりずっと心地がいい。
 また一緒にいられる。ずっと隣に居られる。この幸せが続くとオレは思っていたが、幸せなこの時間は長くは続かなかった。


 朝飯を済ませ、ホシガリスがオレの家にやってきた時だった。昨日は会えなかったが、ホシガリスもオレにきのみを持ってきたとあいつが言っていた。食いしん坊なホシガリスだから、いつもなら自分で食べるか尻尾に隠してしまう。普段のホシガリスからは、誰かにきのみをあげるなんて想像もできないが、あいつは嘘を言うようなやつじゃない。それだけホシガリスも心配してくれたのだろうか。『もう大丈夫だ』と言えば、安心したような顔をした。
 ちょこちょこと歩いてきたホシガリスが突然オレの後ろを指差した。後ろにあるそれは何かと、言った。何のことかと、自分の後ろを見てみれば、すっかり忘れていた『それ』があった。
 『それ』は、あいつと出会った場所から少し離れたところにあった、あいつのにおいのするものだ。もしかしたらあいつの物かもしれないと持って帰ってきたのだ。
 あいつからは見えないらしく、こちらを不思議そうに見つめている。オレは『それ』をあいつの前に差し出した。
 『それ』を見た瞬間、あいつの体はピシリと固まり、ぐらぐらと青い瞳が揺れ、『それ』はあいつの何かなのだと察した。だが、予想外の反応に胸がざわついた。
 震える手を延ばし、土まみれになった『それ』を掴んだ。信じられないと言いたげな目をしていた。その中には、硬い葉っぱのような物やそれが何枚も入っている袋。硬い葉っぱの様な物には、あいつの顔や変な模様の入ったものもあった。他にも見たこともない物がたくさん入っていた。

 その時から、あいつの様子がおかしくなった。体は大丈夫なのかと心配していたホシガリスだったが、もう平気なら遊ぼうと、あいつの足を引っ張った。いつもなら直ぐにふわりと笑って、ホシガリスの要求に首を縦に振るのだが、ホシガリスがあいつの脚に振れると、肩を跳ねさせた。
 川で水浴びをしているホシガリスを見ていた筈のそのひとみは、ふとした瞬間に、遠い目をした。何か別のものを見ているようだった。呼んでも反応せず、大声を出したり近くに行って、やっと返事した。
 どうかしたのかと、尋ねようにも人間とポケモンでは言葉が通じない。オレはあいつが話してくれるまで待つしかなかった。
 日が傾いて、ホシガリスは自分の住処へと帰っていき、オレ達も家に帰ろうと、あいつを見れば音を立てて目線が合った。昼に覗かせた虚ろな瞳ではなく、強い眼差しでこちらを見ていた。心臓がどきりと跳ね上がる。高鳴りと同時に胸がざわついた。
 家に着くと、小さな手がオレの手を取った。あいつの手は二つ合わせても、オレの半分もない。小さな手はオレの指先を包むので精一杯だ。



「今日ずっと、あなたのことを考えてた」



 夜の闇に染まらず、青い瞳は温かい。瞬間に体が熱くなる。しかし、熱を持った心臓は一瞬にして冷えきった。
 その後に発せられたのは予想もしなかったものだった。何を言われたのか理解出来ず思考が停止した。何度も頭の中で響くその言葉を必死に追った。あいつはその後にも言葉を続けたが、その一言を理解するのに精一杯で何も頭に入ってこない。
 俯き気味に話していたあいつはが話し終えて、ぱっと顔をあげた。再び視線が交わる。日の光のように温かい眼差しがオレを包み込む。しかし、漸く理解できた言葉はオレを貫いた。
 理解できなかったんじゃない。オレは分かりたくなかったんだ。受け止めきれなかったんだ。また、あいつの言葉が頭の中で響いた。



ーー「私……この森を出るわ」






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