第二話(1/1)

「こんなところまですみません。」

 
橘花は言った。
 今のオレはというと、どういうわけか彼女たちの家にいる。
 オレだって、こんなことになるとは思っていなかったし、家の前まで送る予定ではあったが、家の中にまで入る予定はなかった。

 何があってこうなったか、順を追って話そう。


 風花が腹を空かせていたから、飯に誘った。橘花も、にこりと笑って誘いを受けてくれた。そこまでは良かった。
 しかし、次には僅かな後悔を覚えた。
 彼女たちと出会ったのは、ほんの数時間前。ふたりの事情は知っていても、それ以外の事は当然何も知らない。
 ならばこれから知っていけば良いと思いたいところだが、複雑な過去を持ったこのふたりとどう接するべきかが分からない。
 当たり障りのない会話をしているつもりでも、何気ない事で彼女たちの辛い過去を思い出させてしまうかもしれない。
 それだけは避けたい。
 だが、そんな事を言い出したら会話なんてできない。気にしすぎだと指摘されるだろう。
 しかし、オレ自身が誰にも触れられたくない過去を持っているからか、気にせずにはいられなかった。
 それに加え、オレは元から話上手でない上、普段誰かと会話する事はあっても、任務に必要なやり取りをするだけで、友人とも殆ど話さないし、世間話もろくにしていない。
 そもそもまともな会話すら出来るのかも怪しい。
 下手をすれば、オレといることで、オレのせいで、このふたりは不快な思いをするかもしれない。
 誰かを飯に誘うなど、慣れないことなんて言い出すべきではなかった。
 自ら困難な状況を作り出してしまったことに激しく後悔した。
 しかし、それも要らぬ心配で終わった。
 火影塔から繁華街へ向かう間、適当な飲食店を選ぶ間、入った店で料理を選ぶ間、料理を頼んでから運ばれてくるまでの間、食事をしている間。気まずさを感じることはなく、ただ普通の、何でもない時を過ごした。
(当然会話もしたが、風花から「あれはなに?」、「これはなに?」と目についた物について質問をされ、オレはそれに答えるというのの繰り返しで、自分から話題を振らずに済んだ。)
 
 自分から飯に誘っておきながら、誰かと飯を食うなんてと気が重かったし、オレにとって食事なんて空腹からくる食欲を消すためだけの行為だったが、ふたりと食事をしていて楽しいと感じ、食べ物もすんなりと喉を通り、何か満たされた気分だった。
 こんなことはいつぶりだろうか。


 食事の後は、里の中を軽く案内した。ふたりが里に来たのは数日前とは知っていたが、まだ里の中をまともに歩き回ったことがなかったようで、風花はきゃっきゃとはしゃいでいた。
 時間帯が夜だったのもあり、風花は帰路の途中でうとうとし始め、ぱたりと電池が切れたように歩きながら寝てしまった。このまま歩かせる訳にも行かず、橘花は風花をおぶり、帰路に着くことになった。
 木の葉の里の治安は悪くはないが、女性だけで夜道を歩かせるのもと思い、彼女たちの家の前まで送る事にした。
 本当にそこで帰る予定だった。

 アパートの前にたどり着き、橘花に礼を言われ、「気にしないでよ」と返した時だった。


「……ん」


 橘花の背でぐっすりと眠っていた風花が重い瞼を開けた。
 起こさないようにと声を落としたつもりだったのだが、と少々申し訳なさを感じていたが、橘花は気にしていない様子で寝ぼけ気味の風花に話しかけた。


「ほら、風花。カカシさんに『ありがとう』って」


 橘花の言葉に風花はゆっくりと体を起こし、半開きの目のままオレへと顔を向けた。寝起きで焦点の合わない瞳でオレを見ると、風花は身を乗り出してこちらへ両手を広げた。
 一体どうしたのだろうと、風花は何をしようとしているのかと困惑していたのも束の間。瞼が彼女の瞳を覆ったのと同時に──ガクンっ と風花の体の力が抜けた。


「っ!!」


 ただの反射だった。バランスを崩して落ちそうになった風花を、オレはなんとか抱き止めた。
 落ちなくて良かったと安堵しながら、腕の中にいる風花を見ると、予想通り彼女はすやすやと眠っていた。


「っ!…すみません…!!」


 出会ってから今まで感情を見せなかった橘花が慌てた表情で言った。それから風花を抱こうとしたが、いつの間にかオレの服は風花にがっしりと掴まれており、名前を呼んでも起きず、どうしようも無くなった。


──そして今に至る……という訳だ。


 風花をそっとベッドに寝かせ、布団をかけてやる。薄暗い室内でも分かるほど、彼女の寝顔は穏やかである。
 橘花がベッドの脇に立ち、ふわりと風花の頭を撫でた。その手付きはとても優しく、闇に溶ける黒い瞳は愛しそうにその瞳に風花を映している。
 橘花と出会ってまだ数時間しか経っておらず、まだまだ分からないことだらけだが、妹である風花を大事にしているという事だけは分かった。
 さてと、風花も無事送り届けたし、そろそろ帰るとしよう。適当に言葉をかけて自分の家に帰ろうとした時だった。
 橘花がオレを見つめていた。先ほどまでは柔らかい色をしていたのに、オレを映すそれは再びただの黒へと変わっていた。


「カカシさん。少し話しませんか。」


貫くように真っ直ぐな瞳は、首を横に振ることを許さない。
 断る理由もないし、『彼女の話』を聞くまで、橘花は何度でもオレを誘うだろう。そんな目をしていた。オレは彼女の望み通り、首を縦に振った。
 すると、にこりと微笑み、橘花は素早く印を結び影分身を部屋に残すと、オレと共に家を後にした。



* * *



 彼女はこの里に来たばかりだというのに、何処にう行くか決めているのか、オレの前をスタスタと歩いていく。誰にも聞かれたくないのか、ついには森にたどり着いた。彼女から敵意など全く感じないが、人目が全くないこの状況で警戒しないわけには行かない。
 月が出ていようが、夜の森は暗い。オレも夜目が利くが、彼女はオレよりももっと見えている気がした。
 未だ何も話さず、歩みを進める彼女の後ろをひたすらについていく。一体何を話そうとしているのだろう。少しずつ心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、ついに橘花はピタリと足を止め、オレの方を振り返った。

 たどり着いたのは川辺。その近くには滝があり、大きな水の音は周りの音を浚い、全ての音をそれに変えてしまう。これならば、誰かが聞き耳を立てたとしても聞こえないだろう。
 しかし、それほどまでにして彼女は何をオレに話したいのだろうか。心臓が嫌な音を奏で始めた。
 橘花は適当な岩に腰掛け、オレは彼女から近すぎない距離にある岩に同じように腰をかけた。
 彼女の方を見れば、視線と視線がぶつかり合う。激しく水が流れる音に包まれ、本来なら届きにくいはずの声は、恐ろしいほど真っ直ぐオレの耳に届いた。


「カカシさん。あなたは私の”矛盾”に気づいていますよね。」


薄く笑みを浮かべるその顔は、思わず見とれてしまうほど美しく見えた。しかし、その表情とは反対に、眼光はとても鋭利である。
 オレは黙り込んだ。彼女が話すそれがどんな内容かは分からない。しかし、彼女が話そうとしている事については分かった。


「火影様からは、”私たち”があなたの親戚だと言われたんじゃありませんか?」


ピクリと肩を揺らしたオレに、橘花はふふっと声をもらした。


「そうです。あなたの思っている通り、私とカカシさんには血の関係はありません。それは妹の風花だけ。私の両親はどちらもうちはです。」


驚きはしなかった。寧ろ、「やはり」という感想の方が強かった。オレの反応を見ながら、橘花はゆっくりと話を続けていく。
 そう。彼女の言う通り、彼女には矛盾する点がいくつかあった。

 まずひとつ。もうひとつのうちは一族の歴史についてだ。なぜ彼女が知っているのか。という事だ。うちは一族から逃げ出した後に橘花が生まれたというのなら、母親はわざわざその話を彼女にしたことになる。
 彼女の母親が元から復讐を望んでいたのなら話すだろうが、寧ろ逆だ。普通なら話さない。その必要は無いのだから。しかし、彼女の記憶にはそれが刻まれていたのだ。
 そしてふたつ目。彼女の年齢だ。彼女は十九歳。オレの二つ年下だ。風花は七歳。つまり、橘花が十二歳の時に風花が生まれたことになる。
 彼女の母親は、忍会大戦に巻き込まれ、その際にうちは一族から逃げ出した。しかし、両親を亡くしたのは一年前らしい。両親は”争い”に巻き込まれて亡くなったといっていたが、戦争とは言っていない。
 つまり、オレが何を言いたいのかというと、時期的に忍会大戦時には、橘花はもう生まれているのだ。つまり、うちは一族から逃げたのは、彼女の母親だけではなく橘花も一緒でなければおかしい。

 橘花の正しい生い立ちはこうだろう。彼女はうちは一族の集落で生まれ育ち、その中で一族の歴史を教えられ、第三次忍会大戦に巻き込まれ際、母親と共にそこから抜けた。そして、逃げた先で姓をはたけと名乗る男性。つまり、風花の父親となる人物と出会い、風花が生まれた。そして四人で暮らしていたが、不運にも何か争いに巻き込まれ、両親を亡くし、そして木の葉に拾われた。といったところだろうか。
 答え合わせをするように、彼女の話を聞いた。絡まりきった糸がほどけるような感覚。はらりはらりと疑問が解けていく。やっと、本当の意味で納得がいった。
 彼女に辛い過去を語らせてしまい、申し訳ない気持ちでありながらも、頭の中はすっきりとしていた。
 しかし、次に放たれた一言はとても強烈で鈍器で頭を殴られた様な、重たい衝撃が走った。


「そして、風花の両親を殺したのは、私の父親に当たる人物です。
まぁ、あの男を父親だと思った事は一度もありませんが。」


声色も表情も変えずに再び話し出した。そして、それはオレに"言わなくていいこと"だった。
 彼女の父親は、一族の長であり、一族で最も復讐に取り憑かれていたという。だから、彼は力を求めた。そして、一族の中でも特に強い瞳術を持つ橘花の母親は目をつけられ、何度も何度も求婚された。彼女は断り続けたが、痺れを切らしたその男はついにとんでもないことをした。そう。無理矢理自分の子を彼女に身籠らせたのだ。


「それが私です。」


黒い瞳はピクリとも揺れない。自分の事ではなく、まるで他人の話しでもしているような素振りである。
 どう反応することも出来ず、オレは沈黙するしかなかった。本当は彼女を止めたい。しかし、止め方が分からない。そんなオレを無視するかのように、風花は話を続けた。


「私はただの『道具』でした」


愛ゆえに授かった子ではなく、復讐の道具としてこの世に産み落とされた。橘花に求められたのは強さだけ。
 幼い頃から忍術や体術、瞳術の使い方などを教え込まされたと──
 彼女はそれ以上語らなかったが、父親に逆らえば何が行われていたのは容易に想像がついた。そして、彼女が感情を見せない理由と関係しているのではないかと思わずにはいられなかった。


「母は立派な人でした。そんな私をも愛してくれたのですから。」


彼女の母親はどこまでも慈愛に満ちた女性だった。無理矢理孕まされ、無理矢理生まされた子供であっても、その子供には罪はないと、「私の可愛い子」と言って橘花を愛した。例えそれが、憎いと恨んでもおかしくない、あの男によく似た顔であっても。
 復讐に囚われた狂った男より、橘花は母親の背を見て育った。それもあり、橘花も母親と同様、復讐を望まない子供に育った。
 ふたりはこの狂った集落から抜け出すことを考えていたが、村の一族対ふたりでは分が悪く、抜け出すタイミングを長い間待ち続けた。そしてついに、その時が来たのである。
 第三次忍会大戦が勃発し、戦争の火の粉は時に関係の無い一般人にまで降り注ぐ。
 橘花のいた集落は、霧の濃い山の奥にひっりと構えられていたが、不運な事にたまたまその場所が戦地と化した。橘花にとっては幸運なことだった。
 そして、追手からも逃げきり、ふたりはある男性に出会った。


「ここから先は、先程お伝えした通りです。
血は繋がっていませんが、父も母の様に私を愛してくれました。」


 橘花はそこでやっと感情を見せたが、その笑顔は儚げで、風か吹けば煙のように消えてしまいそうだった。
 そして、風花が生まれた。


「毎日が穏やかで、とても幸せでした。」


 彼女たちは、何処の里にも所属せず、街から離れた場所で静かに暮らしていた。理由は簡単。あの男から逃げるためだ。
 自分がされた訳でもない先祖の憎しみをあそこまで受け継げるのだ。自分への裏切りを許すはずがない。裏切り者を殺すまで執拗に追いかけてくるに違いないと。だから、何度も何度も住まいを変えて暮らしていたのだが、風花が六つになった頃、ついに最も恐れていた出来事が起きた。

 彼女の両親は、自分達に近づいてくる禍々しいチャクラを感じ、彼女たちを逃がした。そのチャクラは間違いなくあの男のものだったという。
 橘花は両親に言われた通り、風花を抱えて逃げた。暫くすれば、静かな森に似合わない破壊音が聞こえてきた。それでも振り返らず逃げた。
 しかし、どうしても気になってしまって。自分なら両親の力になれると、風花を安全な場所に隠して、あの場所へ戻った。


「しかし、戻ったときには全てが終わっていました」


噎せ返るほどの濃い鉄の匂い。誰のものかも分からない辺り一面に広がる赤い水溜まり。そこにはあの男だけではなく、一族の数人が地に伏せる姿もあったという。一族の裏切り者として、彼女たちを何年間も探し続けたのだろう。橘花が復讐に取り憑かれていたという言葉を思い出した。その執念深さは、彼女の言葉の通りだった。


「ですが、私は両親の最後の言葉を聞くことが出来ました。」


当然、あの人数をふたりで相手をして無事であるはずがなかった。あちこちから血が流れ、虫の息ではあったが、ふたりは美しく微笑んで言った。


「"風花を守ってあげて"と。」


橘花はオレから目線を切ると、どこか遠くを見つめながら続けた。


「それからはまた地獄のような日々でした。」


何度も危険な目にあったが、なんとか生き続けた。そして、人拐いに襲われているところを、木の葉の暗部に偶然通りかかり、彼女は助けを求めた。


「忍になればある程度の危険は付き物でしょうが、あの時の様に毎日怯えて。安心して眠ることも出来なかったあの時よりはずっとましです。」


橘花はそう一言で済ませてしまったが、きっとオレが想像も出来ないような惨いことがあったに違いない。それは、彼女を見れば分かる。
 彼女は長いまばたきをすると、黒い瞳に再びオレを映した。


「私は妹を何があっても守りたい。だから里を裏切る気はありません。」


里の中にいれば、事件に巻き込まれるとか、そういったことが無い限りはは安全である事には違いない。つまり、この里を守ることは、妹を守ることにもなる。


「ただ……。もしも私が、里の危険因子となった時は」


それに続いたぞっとする言葉とは反対に、彼女は
美しく微笑んだ。心臓が握られるような感覚。しかし、これは彼女に魅入ったからではない。


「それで里の平和が守られるのなら。その時は躊躇わず私を殺してください。」


そんな恐ろしい台詞をさらりと。しかも、にこりりと清々しい笑顔で、冗談でもなく本気で言い放つ彼女に、自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。


「もしもの話です。私もそうなることは望んでいませんから。」


橘花は可笑しそうにくすくすと笑ったが、それを彼女と同じ様に笑って流せる訳がなかった。だって彼女とは本気だったのだから。


「これで全部です。少しは信用してもらえましたか?」
「……あぁ」


捻り出したオレの声は、滝の音にかき消されてしまう程に酷く掠れて情けないものだった。
 それから橘花は、この話は全て自分から話すから風花には言わないで欲しいと言った。
 オレは頷いた。そもそもこんな個人的なものを誰にも言う気はない。特に橘花の出生や、その血の繋がった父親のことも、その男が彼女の両親を殺めたことも、彼女がオレにそこまで話す必要は無かった。オレは知ってしまっただけなのだ。


「遠縁ではありますが、風花のとこはどうか気にかけてあげてください」


それはまるで、自分の事はどうでもいいから、妹だけはと言っているようだった。いや。そうなのだろう。
 ここへきてようやく分かった。彼女が一番言いたかったのはこれだったのだと。
 包み隠さず己の過去を語り、オレが彼女に抱いていた疑問は全て無くなった。そこまでして彼女が得たかったのはオレからの信頼。自己犠牲にも似た彼女の行動。それはきっと妹の風花のために。


「あぁ」


オレは先程と同じ返事を繰り返したが、彼女は満足そうに微笑んだ。いままで見た彼女の顔の中で一番感情を感じたその顔は、やはり美しいことには変わりなく、そして嬉しそうだった。しかし、一瞬だけ僅かに見えた死相を感じるそれにオレの背筋は凍りついた。

──彼女は一体何なんだ……?

 それから先の事はあまりよく覚えていない。
 気が付けば、オレは彼女を家まで送り届け、自身の帰路についていた。夜は完全に更け、静まり返った街に自分の足音がよく響いた。街灯に揺れる自分の影を見つめながら、彼女が別れ際に言った言葉を思い出していた。


──「私が可哀想ですか?不幸だと思いますか?」


相も変わらず、真っ直ぐに言葉をぶつける橘花。その黒い瞳に映るオレは動揺していた。
 確かに、不運であったとは思う。しかし、それでも必死に生きてきたのだ。可哀想だとか、不幸だとか。そんな言葉を彼女に向けるのは失礼だし、思ってもいない。
 だがオレが否定するよりも先に橘花は言った。


「私は幸せです。この里に来て、やっと生きることに希望を見出だせました。」


そしてまた、オレの不安を煽る、美しい笑みを浮かべた。


「それに過去は全て受け入れましたから。」


心臓が嫌に鳴り出す。じわりと滲んだ汗がオレの背中を滑り落ちていった。
未だに受け入れ切れず、いつまでも同じ場所で立ち止まるオレよりはいいのかもしれない。だが、彼女の行き着いた先は一体何処なのだろう。
 本人に聞かなければ分からないことを考え続け、いつの間にかオレは自宅の扉を開けていた。広がる風景に、彼女たちの部屋を重ねた。
 まだ家を与えられたばかりなためか、家具などは生活に必要な最低限しか無かった。自分も似たようなもので大差はなく、寧ろあちらの方が物が少なく生活感がなかったのに、自室の方がひどく殺風景に感じた。
 理由なんて分かりきっていた。
 片手で鍵を閉めながら靴を脱ぎ、そのまま脱衣所に向かった。風呂場のコックを捻り、シャワーの水を頭から被れば、熱くなった頭が冷えていく。無意識のうちに浅くなっていた呼吸も、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
 温まりもせず、水浴びのような入浴を済ませ、さっさと寝支度を調えた。
 倒れ込むようにベッドに身を預け、見慣れた天井を見つめる。カーテンを閉めていない窓からは青白い月明かりが差し込み、薄く開かれた窓から入り込んだ風がふわりとカーテンを舞わせて、暫くの間ゆらゆらと流れる様な影を作った。
 そしてひとつ、大きく息を吐いた。


 昼過ぎに火影様から突然呼び出された時から、今日は色々なことがあった。
 変わらぬ日常を繰り返し、特に感情を使わない毎日だったのに、今日は久しぶりに楽しい感じたり、驚いたり、美しいものに魅入ってしまったり、一言では言い表せない苦い感情が渦を巻いたり。いつも空っぽな日々を送っていた自分には、とても濃い一日となった。
 今日のことを思い出すと、胸の中が温かくもあり、反対に冷たさも感じる。太陽と月のような姉妹。橘花が冷たい人間で、風花が温かい人間だと言っている訳ではない。橘花は温かい人間だ。妹を見つめるその目は自分に向けられたものではないが、彼女が妹を思う気持ちは痛い程伝わってきたから。
 ただ、彼女の瞳の奥に僅かに見えた不穏な色。死相を感じるそれが、トラウマのようにオレの脳裏に焼き付いている。彼女からあんな話を聞いたばかりだからそう見えてしまっただけなのだろうか。
 彼女はこの里に来て生きる希望を見出だせたといっていた。やはり気のせいなのだろうか。少しもやもやと心に引っ掛かったままだが、今はそう思うことにした。

 オレの日常はこれから大きく変わるだろう。少なくとも、感情を隠す面を着けて任務をこなすだけの日々ではなくなる。また、今日の様に一緒に話ながらわいわいと食事をしたり、里の中を案内したり。これからは、買い物に誘われて荷物持ちを頼まれたり、修行に誘われたりするのだろうか。
 過去に囚われ、答えのでない平行線の上を行ったり来たりしていたのに、気が付けば明日は?明後日は?と、これからの未来の事ばかり考えている。
 オレはもう既に変わりつつあるのか。
 橘花は過去を受け入れたと言っていた。オレもそうするべきなのだろうか。そんなオレを彼らは許してくれるのだろうか。
 下を向いてばかりで自分の影だけを見つめて、自分が立っているこの場所は暗闇だと思っていた。でもそれは思い込みで、首を上に持ち上げれば煌めく太陽と何処までも続く青空が広がっている。オレにないのは、上を向く勇気だけなのかもしれない。
 今はまだその勇気はない。でも、やっとその事に気が付けた。それだけでもオレの中では大きな変化である。
 その変化は少し怖くも感じる。しかし、いつもオレに迫って来るように見えるこの部屋の闇も、今日だけは眠気を誘うだけの心地よいものだった。オレは抗うこともせず、重くなり始めた目蓋をゆっくりと閉じた。

──あぁ。今日は眠れそうだ。




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