第五話(2/3)

 それから一週間はあっという間に過ぎ、風花と共に中忍試験へ向けて発つ橘花を見送り、風花との生活が始まった。
 誰かと生活をともにするのは、もう十年以上も前のことで、初めこそどこかぎこちなかったが、一ヶ月もすれば慣れてしまった。
 それから……


「ねぇ!兄さん、兄さん!!」
「んー、どうしたの風花」


 風花はオレを『兄さん』と呼ぶようになった。
 きっかけなどささいなもので、ある時風花がオレを「兄さん」と呼んだから。

 風花から見れば、オレは親戚のお兄さんのような存在だし、風花がオレを「兄さん」と呼ぶのは別に変なことではない。それに、その呼び方を否定したら、風花との関係が悪くなっただろう。だからそうならないように受け入れた。

 橘花が中忍試験を受けている間はオレが橘花に代わり、風花の保護者である。その間、どんなことがあろうと放棄することはできない。それならば、ギスギスしたものではなく、出来る限り円滑な関係を築く方が賢明だ。
別に風花と仲良くなりたいとは思っていないが、
関係が悪くなって彼女との生活が上手くなるのは困るから、何も言わなかっただけ。受け入れた理由はただそれだけだった。


 「兄さん」という呼び名にも呼ばれ慣れた頃、風花は以前よりもたくさんオレに話し掛けるようになった。この里に来たばかりの時よりも風花の笑顔は増えた気がするし、橘花に頼まれた事を自分がちゃんと出来ていることに安心していた。
 だが、橘花を思って風花が不安がったり寂しがったりするのはどうにもしてやれなかった。
 しかし、風花の気持ちは理解できる。試験中だから連絡がないのは仕方ないとはいえ、橘花が木の葉の里を発ってから、もう既に二ヶ月が経過していた。試験期間の長さとして平均的だし、未だ帰ってこないのは、試験に脱落していないからであり、連絡がないのも生きている証拠である。それでもやはり、不安なものは不安で、橘花の身に何かが起きてしまったらと、考えてしまう時もあった。だが結局、オレたちはただ橘花を信じて待つ事しか出来なかった。



* * *



 その日もいつも通り風花を寝かしつけてから、暗部服を身に纏い任務へと向かった。
 頭を切り換えなくてはならないのに、脳裏には風花の穏やかとはいえない寝顔がぼんやりと浮かんでいた。
 最近の風花は何となく不安定で、理由といえば、橘花の帰還が思っていたよりも遅いこと以外に無いだろう。
 だが、それはただの予測で、本当はもっと別の事で悩んでいる可能性だってある。
 なにで悩んでいるのか、どんな風な不安を抱えているのか。本人に直接聞くのが早いが、聞き出すようなことはしたくない。

 もしも、風花自身が、今の自分の気持ちを理解していないとしたら?──「今、どんな気持ちなのか教えて欲しい」──と聞かれても上手く答えられなくて、こちらにそんな気はなくても彼女を追い詰めてしまうかもれしない。
 オレは何をどうするべきなのだろう。と、考えて考えて、頭の中はそればかりだったのに、根っからの忍だからか、それとも冷徹な人間だからか、任務が始まってしまえば、風花のことなど綺麗さっぱり忘れたかのように、彼女の事が頭を掠めることもなかった。
 

 任務中、想定外の事態も起きたが、任務は無事成功した。簡単な帰り支度を済ませ、隊員に軽く声を掛けてから控え室を後にした。
 建物の出入り口正面の道を真っ直ぐに進みぼんやりと夜道を歩く。
 今の生活が始まったばかりの頃は、染み付いた習慣というかなんというか……、間違えて自宅に帰る事が多々あった。しかし、二ヶ月もすればこれも慣れか、自然と足があの姉妹の家へと向かうようになった。

 そこで漸く風花の存在を思い出した。それでは少々語弊があるだろうか。今までぼんやりとしていたものがはっきりしたとでも言うべきか。これでも何だが違う気がする。上手く表現でずモヤモヤとする気持ちもあるが、そんなことよりも……と、オレはまた風花の事で頭を悩ませた。
 日に日に元気が無くなっていく風花。「橘花が試験の間は風花の面倒を見る」と自分からそう言ったのに、これでは橘花に合わせる顔がない。
 それに、不安がっている風花を見ると思うのだ。──もしも、最悪の事態が起きてしまったら──と。

 橘花が実際に戦っている姿を一度も見たことはないが、実力は間違いなく上忍クラス。いや、それ以上かもしれない。
 ただ、中忍試験の内容によっては、実力ではどうにもできない不慮の事故のようなことが起きないとも限らない。
 中忍試験とはそういうものだ。
 だからこそ思うのだ。もしも橘花に何かがあったら。この里に帰ってこられないような事があったら。その時はどうしたらいいのだろう、と。
 一時的にと引き受けた風花の保護者をこれからも続けていくのか、それとも別の誰かに任せるのか。「もしも」の事を今から覚悟しておくべきか。
 いいや、ダメだ。こんなことを思っていたら現実になりかねない。それに、オレが少しでも不安げな態度を見せれば風花がどうなるかは簡単に想像がつく。
 幼い子供に気を遣わせるわけにはいかない。オレは大人なのだから。もっとしっかりしなくては。

 ぐるぐると考え込んでいるうちに、アパートへと辿り着き、階段を上がって、外廊下を進んだ。
 はぁ……、とひとつため息をつき、歩きながら腰のポーチへ手を突っ込み、鍵を取り出した。玄関前に立ち、鍵を差し込もうとした時、不意にとてつもない違和感が襲った。
 何がどうなどと、ハッキリしたものではない。ただ何となく「いつもと違う」という感覚。
 心臓が嫌に動き出し、胸騒ぎを煽る。
 オレは鍵穴に鍵を差し込み捻った。

(っ……!!)

 カシャン──と、聞こえる筈のその音はせず、鍵が空回る小さな音が指の先から伝わった。

 玄関の扉は開いていた。

 きちんと確認してからここを出た。この扉が開いている筈はない。
 次には今が真夜中だというのも気にせず、その扉を勢いく開けていた。
 玄関に入るなり、その違和感はさらに大きくなる。
 室内は異様に静まり返っていた。
 風花が寝ているのなら当たり前だが、それにしても静かすぎる気がした。
 ただ玄関の鍵が開いていただけなのなら、オレが任務にいっている間に風花が起きて、修行をしに家を出たが、鍵をかけ忘れたのかもしれないと、そう思えたかもしれない。
 しかし、玄関には風花の靴が置かれたまま。靴はいつも綺麗に揃えられているのに、片方の靴の爪先は外側を向き、もう片方の靴はパタリと倒れていた。
 別の靴を履いて修行へ行ったことも考えられるが、そうだとしても、風花はきちんと靴をしまってから、別の靴を出す。風花が修行に行ったのなら、ここに靴はない。
 しかし、靴はあるのだから風花は家にいる筈。
 でも、きちんと閉めた筈の家の鍵は開いていて、綺麗に並べてあった靴は不自然に乱れている。
 背筋に悪寒のような、嫌な感覚が走った。
 確実に普段とは違うことが起きている。
 乱暴に靴を脱ぎ捨て、風花が眠っている筈の部屋へと駆ける。
 何となくであった違和感は、もはや確信へと変わっていた。


「風花……!!!」


 ノックもせずにその部屋の戸を開けた。
 そこには少し大きめのベッド。掛け布団は捲れ、半分が床に落ちている。
 血の気が引いた。──風花はそこにいなかった。
 頭が真っ白になり、時が止まったような感覚を覚えた。指先が痺れ、全身が凍ったように動かない。
 だが、いつまでも思考停止している場合ではなかった。
 風花が何故ここに居ないかなんて今はどうでもいい。それよりも先にするべきことがあった。
 ベッドサイドに駆け寄り、風花がいたであろう場所に触れる。温もりは一切感じず、寧ろ冷たいとさえ感じた。

──まずい。風花がここに居なくなってから、かなり時間が経っている。

 全身の血がざわつき出す。心臓は激しく脈を打つ。しかし、頭だけは妙に冷えていて、風花の行方も安否も不明であるというこの状況でも、冷静に分析して対応してしまう自分に苛立ちを覚えた。
 どうか無事であってくれ──と、確かにそう思っているのに、何故オレはこんなにも冷静なのか。
 考えられる事はひとつ。やはりオレは冷たい人間なのだ。こんな時でも感情的になれない。人として何か大切なものが欠けている。
 こんな風になってしまったのはいつからだろう。それとも生まれた時からずっとそうだったのだろうか。オレがこんな人間ではなかったら、全てを失わずにすんだのだろうか。
 終わりの見えない思考が渦巻くが、やはり頭は冷静だった。

 鼻にチャクラを集中させ、においを辿ろうと試みたが、オレの鼻でも追跡はできそうになかった。それなら彼を頼るしかないと、クナイで指先を切り、素早く印を結ぶ。床に手をつけば、黒い文字のような模様が広がった。

──ぽひゅん

 間の抜けた音と共に、もくもくと煙が立つ。煙が消えるまでの数秒でさえもどかしく感じた。
 視界が晴れ、そこから姿を表したそれと目が合った。小さくてもふもふした体に、気だるげに開かれたつぶらな瞳が可愛らしい。だが、彼の声は見た目よりずっと渋いとオレは知っている。


「よぉ、カカシ。何か用か。って、ここはどこだ?」


 そう言って、不思議そうな顔をして、きょろきょろと室内を見渡す。普段なら軽く状況を伝えてから、頼みごとをしていたが、その時間さえも惜しい。
 オレは、風花がかぶっていた筈の掛け布団を差し出しながら言った。

「すまない、説明は後だ。……パックン、この匂いを追えるか?」

 パックンは長年連れ添った相棒だ。過去に、一刻を争うような状況も修羅場も何度か経験したことがある。それもあってか、状況を把握した彼は何もいわず首を縦に振ったが、数秒の後、彼は少し険しい顔をした。それだけで、彼の鼻でも追跡が難しいのだと察した。
 オレもそうだが、風花もあまりにおいがしない。その上、時間が経ってしまえば、匂いでの追跡は厳しい。そうなってしまえば、勘を頼りに探し回るしかない。
 絶望を感じた時だった。パックンがぱっと顔を上げ、オレの顔を見た。表情は相変わらず険しいが、それでも真っ直ぐにオレを見る彼の瞳は、とても心強いものだった。


「追えるうちに追うぞ!」
「っ、……!あぁ、頼む」


 オレは駆け出す小さな背中を追った。

 外に出て思わず体が固まった。
 静かだった夜はそこに無く、風は音を立てて鳴り、冷たい空気が肌を刺した。


「こいつは、まずいな」


 パックンのその呟きさえも、風にかき消されてしまう。
 自分の体がどんどんと冷たくなっていくような感覚を覚えた。
 風花が家に居ない理由も分からない。自分の足で出ていったのか、それとも連れ去られたのか。だから、居場所も分からない。もしもこのまま見つからなかったら?見つかったとしても手遅れかもしれない。
 最悪の想定が頭を過り、目の前が真っ暗になった。


「こっちだ!」


 パックンの声で我に返るが、不安は消えること無く渦巻き続けた。
 オレはパックンの後ろをついていくだけで、ただ無事であってくれ、と祈ることしかできない。
 動いたら熱くなる筈の体はいつまでも冷たいままで、鳴り続ける心臓も嫌な音を立てるだけだった。

 そうしてどれくらい経っただろう。
 パックンはピタリと足を止めた。
 場所は風花とよく買い物に来る商店街。普段はたくさんの人が行き交い、賑やかなここも、この時間では当然どの店も閉まっていて、人ひとりおらず、静まり返っている。
 見慣れぬ光景は、違和感からか、恐怖に近い不安感を覚えた。
 突然、全ての人が消え、ここには自分しかいないような、自分だけ取り残されたような感覚だった。

 そして、探している姿はどこにもない。
 パックンは、周辺を嗅ぎ回るが、次には首を振った。


「……だめだ。これ以上は追えそうにない」


 誰もいないこの場所で急に足を止めた時から、パックンが何を言うかなんて分かってた。
 分かっていても、予想していたとしても、その言葉はとても重くのし掛かり、思い出したくもない、じわじわと自身を蝕むような過去の感覚がよみがえる。

 風花の痕跡は、里のあちこちをさ迷うように残っていた。つまり、そこから考えられるのは、風花は誘拐されたのでなく自分の足で家を飛び出したということ。
 しかし、拐われたと考えるなら、こちらを錯乱させるような痕跡を残しただけかもしれない。
 パックンの鼻でもこれ以上追えないのは、強風で匂いが消えてしまったのか。それとも、ここで何かがあったのか。
 風花が家に居なかったのが、橘花を探しにいったと考えるのならまだ希望はある。だが、拐われたと考えるなら、風花が狙われた理由は、彼女の生まれのこと……。正確には風花の「眼」以外は思い付かない。もしも、理由がそれならば、怪我どころの話ではなくなる。

 脳裏に浮かぶ風花の笑顔が、どす黒い赤色に塗りつぶされていく。
 いいや、だめだ。そんなこと、あってはならない。

 どうしてこうなってしまったのだろう。
 オレがもっとちゃんとしていたら。もっともっと気を付けていたら。──

 そしてオレはまた、失いそうになって初めて気付いた。

 橘花と風花の側は居心地が良くて、一緒にいるとなぜ心が穏やかになるのか。
 一言では言い表せない複雑な感情だと思っていたが、その感情はもっと単純なものだった。 


──オレは幸せだったんだ。


 そう気付くのと同時に、飲み込まれそうになる感情を振り払い、印を組む。
 これ以上においでの追跡が出来ないのなら、あとは数でどうにかするしかないと思った。しかし、唸る様な風が吹き、印を組む手が止まった。
 吹き続ける強風。その不気味な風音に交じる何かを捉えた。気のせいかと感じたが、追う様にまたひとつ風が吹く。


「……っ!おい!カカシ!!!」


 確信したオレは、パックンの声も無視して地面を強く蹴り駆け出していた。
 耳障りな風の音に混ざって、悲鳴にも近い泣き声が確かに聞こえたのだ。
 それが風花のものかも分からない。どこかの家の、赤ん坊のただの夜泣きかもしれない。それでもオレは向かい風の中を走った。


 少しずつその声の元に近付いていく。喉の奥から絞り出したような声が、何を言っているのかはっきり聞こえた時、その姿はあった。
 真っ直ぐに続く道の先に不自然にある小さな影は、見覚えのある独特の髪色をしていた。


「風花!!!!」


 その影は勢い良くこちらを振り返った。
 暗がりであまり顔は良く見えない。しかし、それでも分かる程、涙で顔はぐちゃぐちゃになっていた。


「……に、い、……さん?」


 大粒の涙が頬から滑り落ちる。
 よたよたと足を引きずるように数歩近寄り、オレだと分かったのか、彼女はオレに向かって駆け出した。
 あぁ、無事で良かった──と、安堵していられたのはほんの僅かな時間だった。

 本当なら、オレも彼女に向かって駆け寄るべきなのだと思う。でも、風花の姿を見て、ピシリと体が固まってしまった。

 大声で泣きながらオレに向かって走る風花。その足は裸足である。綺麗に乾かして整えた髪は乱れ、身につけた寝巻きも、転んだような汚れがついていた。
 体当たりに近い勢いで抱き付かれたが、体がよろめくこともなく、寧ろ弱々しさを感じた。額をオレに押し当て、「兄さん……!兄さん……!」と繰り返し呼んだ。

 風花がこんな風に泣いているのは、間違いなくオレのせいだと、そう思うのに。

こんなにボロボロになるまでオレを探して、小さな手でオレの服を握り、すがる様に泣いているのは何故なのか。その理由だけは分からなかった。

 風花と出会って、半年弱。彼女がオレに向けるのはいつも楽しそうにする笑顔ばかりだったが、悲しい顔や泣きそうな顔も見たことがある。それでも泣いたことは一度もなかった。
 だから、風花が泣くのは初めて見るし、そしてこんな風に泣くなんて思ってもいなかったから、激しく動揺している。
 ただ、何かを見落としているという焦燥感の様なものが、オレの心を掻き立てていた。そしてその考えはは、間違いではなかった。


「こわい、の!!……ひとりは怖いの!!!ひとりはいや……!!!!」


 それは確かに叫びだった。
 頭を鈍器で殴られたような気分だった。重く響くそれは、いつまでも頭に留まり続け、消える気配はない。
 自分よりずっと小さい背中に、どれだけの思いを背負っていたのだろう。傷口を抉られるようなじくじくとした痛みが胸に広がった。

 オレは見逃していた。表面だけをみて「そんなずはない」と、決めつけていたのかもしれない。

 橘花から「中忍試験を受ける」と相談され、橘花に「風花の今の状態」を教えられた時の言葉が甦る。


──あの子はまだ両親の死を受け入れられていません。

 風花は、両親を亡くしてから木の葉の里に来るまでの記憶があまりないこと。
 夜は時々、悪夢に魘されること。
 ひとりでいるのを極度に怖がること。
 他にも風花について色々なことを話された。
 オレに迷惑が掛からないようにと、橘花はそれを話した。
 そして、オレはその話を聞いて、風花の側にはまだ誰かいてやらなきゃいけないと思った。だから、大人として風花のことをちゃんと見ると決めた。


 幸せだったはずの彼女たちの幸せが壊されたのは、一年半前。──そう。大切な人を失ってからまだそれしか経っていないのだ。──心の傷が癒えていないのは当然で。それに、誰かの死なんて。それも、親しい人の死なんて、簡単に受けいられるものではない。現にオレは何年もこの気持ちを引きずっているし、だから、風花の気持ちは、過ぎる程理解できる。

 橘花の言葉をを重く受け止めつつ、しかし、どこか他人事だった。

 風花がいつも明るく振る舞う姿しか見ていなかったから。橘花と一緒にいて笑う風花の顔は幸せに満ちていたから。ふたりとも、全てを乗り越えたのだと思っていた。
 橘花は、過去は全て受け入れたと、今は幸せだと。確かにそう言っていた。風花も、幸せなのだと、思っていた。

 でも、本当は違った。
 正しくは、オレが思っていた『幸せ』と違っていた。

 幸せというのは人それぞれだが、オレから見るに、木の葉の里の人間は、周りからもっと認められたいとか、恋人と結ばれて幸せな家庭を築きたいとか、火影になりたいだとか、それが叶った時にやっと満たされて幸せを感じている。

 だが、彼女たちはどうだろうか。
 彼女たちは、食べ物や寝る場所に困らず、ただ安心して暮らせる。隣にいる人が明日も変わらずに隣にいる。たったそれだけなのだ。
 ふたりは木の葉に拾われる前、過酷な日々を過ごしていたのだから、それが『幸せ』だというのもそうなのかもしれない。
 でも、それはこの里では最低限の事であって、当たり前の事であって、この里にいる人間が『幸せ』を感じる程のものではない。身の安全など当然だから、承認欲求や自己実現の欲求が出てくる。

 だというのに、橘花も風花もそれ以上を望まないなんて。

だってそんなこと……あまりにも──

 このふたりが不幸だとは思わない。ただ……。オレが思っているより橘花と風花は幸せではないのかもしれない──と、そう思ってしまった。


 泣き叫び続ける風花は、どこか壊れているように見えた。いいや、本当に壊れてしまっているのかもしれない。
 事実、そうなってしまう出来事が彼女にはあったのだから。

 未だしゃくり上げながらオレを呼び続ける風花。泣きすぎて過呼吸になりかけているのに気付き、やっと体が動いた。

 地面に両膝をつき、風花の細い腕を掴んで自分の胸へと引き寄せた。
 オレにできることはこれしか思い付かなかった。


「大丈夫……、大丈夫だから……」


 自分に言い聞かせるようにその言葉を繰り返した。

 耳元で泣き叫ばれているというのに、どこか遠くの音を聴いているような感覚で、ぐるぐると巡る思考で頭が一杯だった。

──どうして風花はこんな風に泣いているんだ……?

 オレがその理由を知るのは、この出来事からもう数年後の話である──




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