「カカシさん。無理を承知で相談したいことがあります」
橘花はいつになく真剣な表情で言った。いや、真剣というより、思い詰めた顔というのが正しいだろうか。
彼女たちと出会って数ヵ月。週に一、二回、あの姉妹の家で夕食を御馳走になるのが日常の一部となり始めていた。
日も暮れた時間帯ということもあり、食後いくらもしないうちに風花は眠くなり、それを橘花が寝かし付け、その後リビングに戻ってきた橘花と軽く会話をしてから帰る、というのがここ最近の当たり前の流れになっていた。
橘花と会話をするといっても談笑には程遠く、天気の話や風花の話をするばかりで、当たり障りの無い言葉を交わすだけである。(任務関係の事は基本的に誰にも話せないし、彼女と話せる内容といえばそれくらいしかないのだ。)
オレたちはお互いのことを一切話さない。だから、これだけ話しているのに、相手の好物や苦手なものが何かすらも分からない。
普通は、その人の事を少しずつ知って、信頼関係を築き、段々とその人の核の部分を知っていくものだが、オレたちの場合は何もかもが逆だった。
オレは、橘花の深い部分についてはよく知っているのに、その他のことほぼ何も知らない。
聞かれればいくらでも答えるし、あちらもオレと同じで、聞けば教えてくれるだろう。それでもそうしないのは、オレも橘花も、お互いがお互いにそこまでの興味は無いからである。
オレと橘花が繋がっているのは、風花の存在があるからで、それが無くしたら、橘花と関わることはないだろう。それ程にオレと橘花の関係は希薄だった。
分かっていながら変えようとしないのは、どこかお互い線を引き、深く関わろうとしないから。
そうする理由は特に無いが、強いていうなら自分に興味を持たれて、自分のことを根掘り葉掘り聞かれるのは面倒だし、何も聞かず聞かれない、今のさっぱりとした関係が楽だからといったところだろうか。
だから、話をするときはいつも淡々としており、そんな橘花があんな風に話を切り出すことは珍しいことだった。
食卓を挟み、オレと向き合う位置に座る彼女の表情は暗い。
話の切り出し方も、その表情も、以前、──たまにでいいから風花のために一緒に食事をして欲しい──と告げられた時のそれと似ている。
今回の相談も、風花関連のことだろう。前回のように「なんだそんなことか」と済む内容な気もするが、話を聞かなければ何も言えない。まず話を聞くことにした。
「私……今回の中忍試験を受けることになりました」
その一言だけで彼女が何を言おうとしているのかを察した。申し訳なさそうに肩を小さくする橘花と反対に、「今年もそんな時期か」とオレは呑気だった。
更に話を聞けば、今回の中忍試験は他里での開催であり、一週間後には木の葉を出発するそうだ。まぁ随分と急な話であるが、中忍試験はそういうものである。
毎回試験官は異なり、それに伴い試験内容も様々。毎回試験期間も違うが、数日で終わることはまずなく、中忍試験は数ヶ月かかるものが殆どだ。
つまり、橘花が中忍試験を受けている数ヶ月間、橘花は木の葉隠れの里を離れることになる。それにより橘花が頭を悩ませる問題はたった一つ。──風花の事以外には無いだろう。
風花は、年相応の子供らしさを持ちながらも年齢の割に落ち着いていて、身の回りの事は全てひとりで出来る。
しかし、風花はまだ七歳の子供。忍と言えど、子供は本来、大人の庇護のもとに置かれるのが普通であり、例え、風花が誰の手も必要とせず完璧に生活出来る子だとしても、「子供」というだけで、ひとりにするには不安は残るものだ。
だから、橘花はこんなにも思い詰めた顔をしているのだろう。
まだまだこの里での生活に慣れていないのに、試験を受ける必要はあるのかと、今回は見送って次回受ければいいのではないかと疑問を抱いたが、曰く、無理にとは言わないが可能であれば今回の中忍試験を受けて欲しいと、火影様から直接そう言われたのだとか。
火影様はこういった事に言葉の裏の意味を持たせることはない。
つまり、本当に彼女たちを気遣って言っているのだろう。
しかし、彼女たちはこの里に拾われた身であり、それも火影様からの直接の頼み事となれば、選択権など最早あってないようなものだ。それに、意図は分からないが、火影様が今回の中忍試験を受けて欲しいと言ったのにも何か理由があるのだろう。
俯き気味だった橘花はゆっくり視線を持ち上げる。そして、彼女がなにか言う前にオレは言った。
「橘花が試験受けてる間はオレが風花を見てるよ。」
黒い瞳が丸く見開かれる。驚く彼女を気にもせず言葉を続ける。
橘花が里にいない間、オレはどうしたらいいのか。定期的に風花の様子を見に行けばよいのか。それともその期間だけは同じ家で寝泊まりするべきか。もしも一時的に一緒に暮らすのなら、オレの家がいいか、彼女たちの家がいいか。
聞きたいことを全て並べた。
そして相変わらず橘花は固まったままである。
自分でも分かっている。オレがここまでしてやる必要はないのだと。
しかし、こうまで言わないと橘花は土下座でもしそうな雰囲気だった。それにオレ自身、風花にひとりで生活できる力があったとしても、風花をひとりにしておくのは不安だし、風花が子供だと分かっていて何もしないのは大人として無責任な気がした。
彼女たちはこの里に来てまだ数ヵ月。交友関係があったとしても、そこまで深い関係は築いていないだろう。オレも彼女たちとは深い関係ではないが、オレと風花は、かなり遠くではあっても、一応の親戚。
正直、オレと風花が親戚であると言うにもかなり無理があるし、橘花に関しては、風花と姉妹であっても異父姉妹。橘花とオレとの関係は遠い遠い親戚というより、もはや他人といっていいだろう。
しかし、今この状況でこのふたりがこの里で頼れる人間といえばオレくらいしかいないのだ。だから手を貸すことにした。ただそれだけの理由である。
──このふたりに近付きすぎてはいけない
未だにその気持ちはあるし、これからもそのつもりでいる。だが、彼女たちが困った時、相談に乗ったり手助けをしてやるという考えも変わらずにあった。
言ってしまえばオレはただの都合のよい人間な訳だが、それでも良い。
今はまだいなくても、そのうち彼女たちにも親しい友人が出来る。そうなれば、オレよりもそちらを頼るようになるだろうし、自然とオレとも疎遠になるだろう。──きっと今だけ。こんな風に関わるのは今だけだ。それまでは自分の役割は果たそう。
自分が何を考えて何を思っているのか、自分自身よく分からない。
このふたりとあまり関わらないようにと思いながら、自ら関わるようなことをする。距離を置おうとしても、自ら近付くようなことをしてしまう。
そう。距離を取るタイミングなんていつでもあった。それなのに結局関わりを持ち続けている。どうにかしてふたりとの関係を繋ぎ止めているのは自分であるような気がした。
頭で考えていることと、行動は真逆な事している。橘花と風花と出会ってからずっとそうだ。
自分が何故こんなことになっているのか、考えても答えは出ない。
ただ、あのふたりの側は居心地が良くて、心が穏やかになる。
その理由が分からなければ、そんな感情を抱く訳も名前も分かるはずがなかった。ただ、一言では言い表せない複雑な感情なのだというのはなんとなく感じていた。
オレの言葉に橘花は、ぱちぱちと二度ほど瞬きをする。固まったままの彼女に「橘花?」と声を掛けると橘花は言った。
「……すみません。そこまでして頂けるとは思っていなくて」
橘花はオレにここまで求めていない。でしゃばり過ぎたかと不安になったが、彼女は安堵の笑みを浮かべると、真っ直ぐにオレを見つめて言った。
「私がいない間、風花をお願いしても良いでしょうか?」
「あぁ」
そして彼女は、いつも通り丁寧に頭を下げ、「ありがとうございます」と言った。
* * *
その後、橘花が里にいない間どうするかを話し合った。
橘花は、どうするかを決める前に、まず「風花の今の状態」について事細かに話し始めた。後出しならないようにということだろう。橘花は、それを踏まえて、風花を見るといっても、負担にならない程度で構わないと続けた。
しかし、話を聞いて尚更、風花にはまだ側に大人がいてやらないとならないと感じた。
そして話し合いの結果、橘花が中忍試験を受けている間、オレは彼女たちの家で寝泊まりをし、風花を見ることになった。
ただ風花の面倒を見るのなら、オレの家の方がオレの負担は少ないかもしれないが、オレの家はふたりで住むには少々狭い。それに、風花は、里に来てまだ数ヶ月しかたっていないし、生まれた時からずっと一緒に居て、誰よりも頼れる橘花という存在がなくなれば、風花は不安定になるだろう。彼女たちの家で生活することにしたのは、風花の環境を変えるのはあまりよくないだろうと考えた結果である。
今後についての話はすんなりと決まり、橘花に見送られ、オレはその日のうちに帰宅した。
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