『あ!ホタル!』
橘花はホタルを見るとやや嬉しそうな声をあげて反応した。
「ホタル好きなの?」
『うん!父さんと母さんと見たから!』
いのいちさんの娘さんはいけないことを聞いてしまったと、一瞬しまったという顔をしたけれど、柔らかい表情のまま答えた橘花を見て、次には安心したような顔をした。
どうやら彼女も橘花の素性を知っているようだとこの反応を見てそう思った。
いのいちさんも同じ様な反応をしていたけれど、その安堵の表情の理由は彼女とは違う、橘花は両親の死の悲しみを乗り越えられたという嬉しさからだろう。
『兄さん!早くいこう!』
ぼうっと橘花の後ろ姿を眺めながらそんなことを考えていると橘花の顔がこちらを向き、それから俺の手を握って少し強く引っ張った。
あぁそうだった。夜に家を出た理由をすっかり忘れていた。
「これから何処かへいくのか?」
「え、…えぇ」
『ホタル見に行くの!』
いのいちさんたちと出くわし、橘花に手を捕まれるまでそのことを忘れていた俺はその問いに素早く返答できず、俺が言う前に再び二人の方を見て橘花が答えた。
いのいちさんはそうだったのか、とにこりと微笑みながら橘花に言葉を返した。
『あっ…!!』
「…!橘花!!」
先程までふわふわと淡い光を放ちながら俺たちの近くを飛んでいた一匹のホタルはするりと闇の方へと方向を変え、橘花はその後を追っていってしまった。
ホタルが移動する速度はとてもゆっくりで、人が歩く位のスピード。
呼び戻して別れの挨拶をさせるべきだったけれどその時の俺はなぜかとても焦っていて橘花を追いかけることで頭が一杯だった。
「すいません!失礼します…!!」
そう短く言って深めに頭を下げて俺は橘花の方へ駆けた。
あまり遅くならないようになと後ろからいのいちさんの声が聞こえた。時間が夜ということもあり相手に聞こえるよう大きな声で“はい”と返事をするわけにもいかず橘花に追い付いたところで一度立ち止まり、再度いのいちさんたちに頭を下げてその返事を返した。
いのいちさんの“遅くならないように”という言葉にはなにか意味があった気がしたけれど考えすぎだと思ってそのまま流すことにした。
それからまた橘花の方へと体を向けた。
橘花は変わらずホタルだけを見つめてその後を着いていっていたが
いつの間にか一匹だったはずのホタルは対になり、寄り添うように飛んでいた。
* * *
ホタルにも帰巣本能があるのか、その後に着いていった俺たちは目的地であった森と里を分けるかのように走る1本の小川へと辿り着いた。
今日の月は満月だった。
強い輝きを持った星は月に負けじと、弱いながらも自らの存在を必死に主張するかのように点々と空に浮いていた。
反対に弱い光しか持たない小さな星は、月の強さに負け、俺たちのところへ届くことはなかった。
そこに星はあるはずなのに、存在すら消えてしまったのかと思わせるほど、その気配も消えていた。
月は確かに綺麗だが、視点を変えてみるとポツポツと数えるほどしか星がない夜空は、どこか殺風景にも思えてくる。
親しい人を失い独りになってから、美しいと思っていた満月に違うことを感じるようになった。
周りに何も寄せ付けない、ぽつりと広い空に浮いたそんな月が、自分の姿と重なって見えたからかもしれない。
満月の日はいつもなんとなく気の沈む俺だが今日はそうはならかった。
それはきっと、物寂しいはず空に華やかさを感じるほどの数のホタルが、俺たちを囲んでいるからであろう。
空に居場所を失った星たちが場所と姿を変え、ホタルになり夜の明かりとして存在しているのだという錯覚を起こした。
それからまだ父さんが生きていた頃、母さんは星になったのだと言った。
そしてまたある人は蛍になったと。
聞いた当初は信じていたが、いつの間にか馬鹿らしいと信じなくなったその迷信を、俺はまた信じそうになっている。
ホタルの光なんて全部同じだと、思うかもしれない。でもより一層、ホタル独特の温かさや柔らかさ、すべてを包み込むような光を放つやつがいる。
そう。俺たちをここまで連れてきたあの対になったホタルだ。
あの2匹は橘花に会ってから、ずっとそのそばを寄り添うように飛んでいる。
でもそれだけじゃない。
俺の周りは眩しいくらいのホタルが飛んでいるというのに、橘花の周りにはあの2匹しかいない。
只の偶然かもしれないが、集団の中のホタルが橘花の方へ飛んでいくと、その二匹はそのホタルから逃げるかのように橘花を誘導する。
同じ種類の生き物なのに、その二匹は決してその集団に交わらず近付きさえしない。
かつて共に生活してきた同胞から逃げ続け、彼女を守り続けた橘花の父と母なのではないかと。
俺は純粋にそう思ってしまった。
きっと無意識のうちに橘花もそう思っていると思う。
その証拠に橘花は他のホタルなど見向きもせず、ただひたすらその二匹のあとを追いかけている。
馬鹿馬鹿しいと鼻で笑った事もあったその迷信を信じかけている理由はこういうわけでだ。
なにがそうさせているのか分からないが、時々見せる柔らかい橘花の表情が、俺の心にピリッとした短い痛みを走らせた。
橘花はすぐ目の前にいるのに、まるでテレビの向こう側に居るかのように橘花は遠くに見えた。
そんな俺を正気に戻させたのはバシャっという水の弾ける音だった。
そして俺の体は思うよりも速く、無意識のうちに動いていた。
* * *
『兄……さん?』
橘花の声で俺は自分が何をしているかを一瞬で把握した。
俺は橘花の手を掴んでいた。
それから橘花と同じように、森と川を分ける足首ほどの水位の小川に足を浸けていた。
橘花の言葉は表情よりも遅くでた。
『なんで…』
なんでというのはオレが橘花を止めたことについてだろう。
オレの声は直ぐには出なかった。それは声が追い付かなかった訳ではなく、オレ自身、自分がした行動の理由が分かっていなかったからだ。
思考の糸を手繰り寄せ、やっとわかった答え。
でもそれを口にすることはできず、オレは違う言葉を投げかけた。
「そろそろ帰らないか?」
やっと出た声は、自分でもなんとなく不自然な気がした。
自分がこんなにも嘘をつくのが下手なのかと、少し動揺した。他人に対しては勿論、自分にすら嘘をつくのが得意だと思っていたのに。
オレはその後に、“もう夜遅い”とか“明日も任務があるから”とか、自分勝手な言葉を並べていた。
でも他に言うことが思い付かなかった。
どうしても橘花をの行かせたくなかった。
しかしそれと同時に、“行かせてはいけない”という使命に近い何かを感じたのだ。
嫌だと言われたらどうしようと、オレは次の言葉を考えていた。だが、橘花は一瞬目を大きくした後、今まで入れていた腕の力を、ゆっくりとおさめていった。
橘花は何か言いたげに口で息を吸ったが、橘花は口を半開きにしたまま唇を震わせた。
『また………会える…?』
その真っ直ぐオレを見つめる真っ黒な瞳に、オレの息は止まった。
“会える?”という言葉が、オレの頭の中に頭が痛くなるほど何度も響いた。
歪みかけた自分の表情を気にしている場合ではなかった。
橘花はきっと無意識にその“会える”という言葉を使った。そう無意識、に。
無意識だからこそ怖かった。
つまり橘花はオレと同様に、あの2匹のホタルに橘花の両親の存在と重ねていたのだ。
決して忘れていたわけではないし、軽視していた訳でもない。でも改めて思った。
橘花の胸に刻まれた傷は深いのだと。
他人には余り変化が分からないかも知れないが、橘花は以前よりは格段に明るくなった。
だから、もう大丈夫だろうという思いがあった。
でもまだなんだ、と。
橘花の、光を通さないような漆黒の髪は夜闇と同化していて、オレは今にも橘花が闇に溶け込んで消えてしまうのではないかと錯覚した。
橘花とは反対に、オレが橘花の腕を掴む力は強くなった。
「あぁ…、また見に来よう。」
あえて“会う”と言わなかった。
言ってはいけない。それから、言いたくなかった。
橘花の闇は深い。
橘花はまだ、射し込んだ光の温かさしか知らないのだ。
今直ぐには無理だ。
でもいつか、体全身に光を浴びて欲しい。
オレにもまだ、その光は眩しすぎて今はこれ以上先には進めない。この先にはオレは一生進めないかもしれない。
でもいつか、二人で同じ場所に立てたら……と。ふと頭のすみにそんなことを思った。
「家に帰ろう」
オレがそう言えば、橘花は頷き、俺たちは川から出た。
川から出ようとしたとき、オレはその時初めて、川の水が冷たいことに気づいた。
帰り道、俺たちは何も話さず来た道を辿った。
大きな月に照らされながら、オレの思いは闇へと溶けていく。
オレが橘花を止めた理由。
あの小川を越えたその先は、ただの森だ。なのにあの時のオレは、その先は別世界なのではないかと思ってしまったのだ。
今まで思ったことのない森の暗さを、あの時初めて怖いと思った。
別世界。……つまり橘花の両親がいる場所だ。
くだらないと思っているのに、この考えを捨てきれないのはなぜだろう。
その理由だけは分からなかった。
橘花が消えてしまわないように、オレはいつもより強く橘花の手を握った。
月の光でできた大小二つの影は、いつもより近く並んでいた。
知ったのは、この出来事のずいぶん後の事だが、あの小川のずっと先には、辺り一面に季節外れの彼岸花が咲いていた。
書き直す前の作品はここまでとなります。
書き直し後の本編も楽しんで頂ければ幸いです。
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