ガチャン!
甲高い音を立てて割れた硝子の器。
その中から飛び出したぶどうを追うようにして床に広がった影が蠢く。

「貴女に興味が湧きました」

なまえの顔に怯えを見てとったのか、闇の中に浮かぶ幾つもの巨大な目が細められた。

「傷つけるつもりはありません。観察させて貰うだけです。大人しくしていなさい」

坑道で聞いた時と同じ、無機質で平坦な声。
だがなまえは舌舐めずりしているような声だと感じた。
そこに滲む明らかな邪悪さに身体がすくむ。

「きゃ……!」

床を這い寄ってきた黒い手にも似た触手がなまえの足首に巻き付いた。
それらは白い肌の感触を確かめるように撫でながら、じわりじわりと上へとよじ登っていき、好き放題になまえの身体中を這いずり回り始める。

「あ……やめっ…ひっ!」

素肌をまさぐられて、ざわっと全身の毛が逆立つ。

外出先から戻ってきてその光景を目にしたキンブリーは、まさしく“腸が煮えくりかえる”という表現が相応しいと感じるほど激怒していた。

「これは私のモノですので、触らないで頂きたい」

キンブリーが氷のような声で告げれば、蠢く闇の中からくぐもった笑いが響く。

「これは失礼」

ぞぞぞぞ、とまた周囲の闇が動き、口と思われる歯が剥き出しになった部分が、三日月の形に歪んだ。
あるいはそれは嘲笑だったのかもしれない。

「私に性欲はありません。父から切り離された時に色欲は置いてきました。ほんの遊びのつもりだったのですが──気分を害してしまったようですね」

そう言いながらも少しも悪びれた様子もない声の主を、キンブリーは横目で睨んだ。
またしても笑い声。

蠢く闇は、現れた時と同様、唐突に去っていた。
お遊びは終わり、ということだろう。

膝から崩れ落ちそうになったなまえをキンブリーが支える。

「まったく…主人の留守に男を引き込むなど、何処で覚えたのでしょうね?」

「さ、触られただけです!」

ようやくショックから立ち直ったなまえは涙目で訴えた。

「それに、たぶんですけど、興味を持った玩具をいじるみたいに、ただ遊んだだけなんだと思います」

キンブリーは無言のままなまえを抱き上げた。

「ゾルフ?」

「消毒します」

大人しくしていなさい、と告げて浴室に歩いていく。
そう言われるのは今日二度目だ。
なまえは深く溜め息をついた。



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