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『善悪の彼岸』
Jenseits von Gut und Bose
怪物と対峙する者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう気をつけなければならない。
貴女が長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しく貴女を見つめ返しているのだから。
--146節/ニーチェ


アスファルトを白く染める雪。

暖冬とされる今年、春先に都心に降った雪は、無限城の上方が霞んで見えなくなるくらいの本格的なものだった。

「……雪……」

「雪ですねぇ」

穏やかな声音で返してくる赤屍は、白いシャツにスラックスというラフな格好でソファで寛いでいる。
こうしていると普通に格好いい。
研ぎ澄まされた刃にも似た美貌だ。
とても殺しが趣味の物騒な男には見えない。
もしも今日『仕事』に出ていたら、白い雪も赤く染まっていたことだろう。
お休みで良かったとつくづく思う。
灰色のこの街に降る雪は美しい。
すべての罪や汚れを覆い尽くして隠してしまうようだ。

「隠しているだけで、消えたわけではありませんよ」

ギョッとして振り返ると、ティーカップを持った赤屍が、薄く笑んでこちらを見ていた。

「…いま私、声に出してました?」

「いいえ」

美しく弧を描いた唇にそっとカップの縁が触れ、琥珀色の液体が流れ込んでいく。
きっと、いまあの唇は少し湿っていて柔らかいんだろうなと、思わず感触を想像してしまい、聖羅はちょっと赤くなった。
そうして一口紅茶を飲んだ赤屍が、ぱんぱんと自分の太ももを軽く叩いてみせたので、誘われるまま彼に歩み寄り、その膝の上に座った。

「そんな顔をしないで下さい。食べてしまいたくなるでしょう」

クス、と艶やかな笑みをこぼした唇が文字通り聖羅の唇を甘く食む。
ゾッとするほど美しい切れ長の双眸の、至近距離からの凝視に耐えられず、聖羅はぎゅっと目を閉じた。

赤屍に出逢ってから知ったこと。
恐怖と愛情は共生出来るものなのだ。
赤屍の瞳を見つめ返すのは、奈落の底を覗き込もうとするのに似ていた。
怖くて──何処までも深く落ちていくような錯覚を引き起こす。

「あ、──」

「怖がらないで」

囁いた唇がまた重ねられる。
繰り返し与えられる口付けは、甘く、甘く、あまりにも心地よくて、ずくんと腹の奥が疼いた。
思考回路が停止する。

「何も考えなくていいのですよ。ただ、感じていなさい。目眩がするほどの快楽をあげましょう」

すっかり力が抜けてしまった聖羅に満足そうに微笑みかけて、赤屍はことさら優しい声で囁いた。

「愛しています」

震えながら目を開く。
闇夜の色をした二つの瞳の中に、自分とそっくりな顔をした女が溺れているのが見えた。



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