ニュースや新聞を賑わせた、この10年内で最大級と伝えられた台風は、呆気ないほどの短期間で日本列島から去っていった。 各地に痛々しい爪痕を残して。 聖羅自身は赤屍のマンションに避難していた為、直接的な被害を被ることはなかったが、まったく問題がなかったわけではない。 赤屍に車で送迎して貰わなければ、通勤ラッシュの時間帯を直撃した激しい風雨のせいで交通機関のダイヤの乱れによる影響を受けていたはずだった。 「あ、音楽聴いてたんですか?」 「ええ。ですが構いませんよ。今から映画を見るのでしょう?」 入浴を済ませ、パジャマに着替えて浴室から出てきた聖羅がリビングに入っていくと、何かのクラシックが低く流れているところだった。 タイトルは思い出せないが、知っている曲だ。 だが、曲名を思い出す前に、ソファに座っていた赤屍がリモコンで音楽を消してしまう。 おいでと手招きされ、聖羅は素直にそれに従った。 赤屍の膝の上に抱き上げられて、優しいキスを受ける。 「可愛いですねぇ…」 くすりと笑う赤屍の瞳を、聖羅は少し照れくさそうに微笑んで見返した。 ここにいる間、この男はこんな風に聖羅を甘やかし尽くしていたのだ。 よくよく見なくとも、赤屍蔵人が並外れた美貌の持ち主であることはよくわかる。 黒いシャツの襟元から覗く首や顔は、男性にしては色が白く、まるで雪のよう。 くびれた腰から臀部へと続くなだらかなラインは、女のそれとはまた違う、蠱惑的な魅力がある。 脚も長い。 睫毛も。 恐ろしい程の強靭さを秘めた、鞭の如くしなやかな細身の肉体は、黒猫や黒豹を連想させた。 「赤屍さん…」 思わず甘えるような声が溜め息とともに漏れてしまう。 至近距離にある端正な顔。 近づく唇に吐息がかかり、聖羅は、ん、と目を閉じて口付けを受け入れた。 すっかり甘え癖がついてしまったらしい。 「こんな風に甘やかされたら、おうちに帰れなくなっちゃいますよ」 困ったように笑って言えば、赤屍の白い面に浮かぶ微笑が深くなった。 切れ長の双眸がゆるりと細められる。 ──あるいは、ゲットバッカーズの二人がここにいて今の赤屍を見たとしたら、その笑い方は危険だと聖羅に教えてくれていたかもしれない。 鮮血を浴びながら、嬲り甲斐のある獲物を切り刻む時に浮かべる、狩人の愉悦に満ちた笑みにそっくりだから、と。 しかし、幸か不幸か、彼らはここにはいなかったし、聖羅もお陰でその事実を知ることはなかった。 「──帰る?」 腰にゾクリとくる甘いテノールが、底に笑いを潜ませて囁く。 唇は確かに微笑の形をとっているのに、目がまったく笑っていない。 「何処へです?」 「どこ…って……」 聖羅は口ごもった。 そして、唐突に思い出した。 昨日、夏実からきたメールの一文が頭の中に蘇る。 『脱出不可能・難攻不落の要塞に軟禁されてるってカンジですね!』 自分で自分の顔は見えないが、よほど青ざめて怯えた表情になっていたのだろう。 微笑を優しいものに変えた赤屍が、「冗談ですよ」と言って笑う。 「そんなに怖がらないで下さい。嫌がる貴女を無理矢理閉じ込めたりはしませんよ」 ──本当に? 首筋に顔を埋めた赤屍の黒髪を指で梳きながら、聖羅は何気なく玄関のある方角へ目を向けた。 ドアには勿論鍵がかかっている。 内側から開けようと思えば簡単に開くはずの鍵が。 しかし、問題は、鍵があろうがなかろうが、台風が去ろうがどうしようが、自分がここから出られるかどうかは、目の前で優雅に微笑む美貌の運び屋次第なのだということだった。 |