全身の細胞が恐怖を叫んでいる。 逃げなければいけないとわかっているのに、体が動かない。 怯えきった目で見上げる聖羅を見て、赤屍は安心させるように微笑んだ。 「大丈夫、怖くありませんよ。痛くしません」 そう言いながら赤屍がコートのポケットから取り出したのは、小さな瓶と透明なビニール袋に包まれた細長いペンのような物だった。 ペンに似ているが、しかし、明らかにペンではないはずだ。 熱で視界がぼやけているせいで、良く見えない。 「少しチクッとするかもしれませんが…あっという間に済みますから」 心臓が嫌な音を立ててドクンと疼いた。 しなやかな指先がビニール袋を破り捨てて中から取り出した細いペン状の物の正体が今度こそはっきりと見えたからだ。 一瞬で血の気が引いていくのがわかった。 ───注射器。 赤屍は無駄のない動作で小瓶の中の液体を注射器で吸い上げると、軽く押し出して空気を抜いた。 鋭い針先から、透明な液体が飛び出す。 透明な、薬液が。 赤屍がゆっくりと長身を屈めて、聖羅の顔を覗き込む。 柔らかな笑顔はまるで患者を安心させようとする医者のそれのようで、尚更聖羅の恐怖心をかき立てた。 「怖がらないで良いのですよ、聖羅さん──直ぐに終わりますから、ね…」 「……………ッ!」 悲鳴を上げたつもりが、声が出ていなかったようだ。 だが、そのほうが良かったのかもしれない。 全ては夢だったのだから。 目が覚めたことでそれがわかり、聖羅は安堵の溜め息をついた。 「おや…起きてしまったのですね」 寝室のドアが開いて、バスローブに身を包んだ赤屍が入って来る。 シャワーを浴びたのか、艶やかな黒髪がしっとりと濡れていた。 汗で冷たくなっている聖羅の首筋を、赤屍のすらりとした指がなぞる。 「怖い夢でも見たのですか?」 幼い子供のようにこくりと頷いた聖羅に、赤屍は瞳を細めて笑った。 「体調が優れないからでしょう。具合が悪い時には悪夢を見ると言いますからね……でも、大丈夫、今度こそゆっくり眠れるようにして差し上げますよ」 優しい優しい声で言って、赤屍はサイドテーブルに手を伸ばす。 カチリと何かのケースを開ける音。 そして、視界の端に映る鋭く光る針。 ビクリと無意識に体が震えた。 「や……!」 「大丈夫。鎮静を兼ねた、ただの睡眠薬です」 赤屍の顔が近づく。 冷たくて柔らかな唇が聖羅のそれに重なった。 「ふ……、んぅ…」 舌を絡み取られ、汗で湿った髪をゆっくりと撫でられる。 「ん……んっ、んんぅ………!」 チクッ、と。 ほんの一瞬だけ腕に走った痛みは、夢と全く同じもので。 喉の奥から漏れた悲鳴は赤屍の口内で掻き消えた。 「ん、…ぅ…ッ……」 唾液が一筋口元から伝わり落ちていき、赤屍の指先に拭い取られる。 赤屍の瞳の中に、うっすらと涙ぐんだ聖羅の姿が映っていた。 綺麗な唇が微笑の形に歪む。 「ほら…ね。怖くないでしょう?」 ──その直後、強烈な睡魔に襲われ、聖羅の意識は暗闇に向かって落下していった。 何処までが夢なのかわからないまま、真っ逆さまに落ちていく。 連鎖していく悪夢の中で、ただ赤屍に握られた手の感触だけがリアルだった。 |