久しぶりに擦り傷が出来た。 突風に煽られてバランスを崩し、派手に転んでしまったのだ。 しかし、幸いにも誰も笑う者はいなかった。 周囲でも似たような事が起こっていたからである。 スカートを抑えて悲鳴を上げる女子高生。 頭を打ったのか、額を押さえてうずくまっている老人に、近くにいたサラリーマンが駆け寄って行く。 それほど酷い強風だったようだ。 聖羅が改めて脚を見下ろすと、履いていたストッキングは破れ、膝頭のかなり広範囲が見事にズル剥けており、みるみる湧き出した血が脛まで滴り落ちていた。 ヒリヒリとした痛みが、不思議と懐かしく感じられる。 そういえば、子供の頃にはよくこんな風に擦り傷を作っていたものだった。 聖羅はハンカチを取り出すと、とりあえずの応急処置として、それで傷口を押さえた。 * 「おやおや。これは、随分派手にやりましたねぇ」 聖羅の傷口を診た赤屍が、冷静そのものの口調で告げる。 その眼差しも、いかにも外科医のそれを思わせるもので、聖羅は改めてこの男は医者なのだと感じた。 「痛みますか?」 「ええと…ジクジク痛むって感じです」 既に血は止まっていたが、傷口にはうっすらと水っぽい粘液が滲んでいる。 粘液で膜が張ったようになっているそこは、熟し過ぎた果実を連想させる甘ったるい匂いを放っていた。 以前友人の猫の化膿した傷口が似たような状態になっていたのを思い出した聖羅は、不安になって恋人を訪ねて来たのだった。 「やっぱり膿んでるんですか?」 「いいえ。化膿してはいませんよ。むしろ良好な状態だ」 救急箱から治療に必要な物を取り出して赤屍が言う。 彼は流水で洗い流して消毒した傷口に大きな白い絆創膏を貼り付けた。 普通の絆創膏とは違うらしく、内側はガーゼの代わりにツルツルした素材になっていて、ワセリンのようなベタつく薬がついている。 「擦過傷専用の絆創膏です。このような状態になっている時には、傷口を乾かしてはいけませんからね。既に再生が始まっているので、直に治るでしょう」 言いながら、赤屍は脳裏に浮かびかけた映像を意思の力で打ち消した。 ──…この匂い 甘ったるい傷口の匂いは、血と膿にまみれた戦場の記憶を呼び覚ます。 戦場では薬品が足りず、満足な治療も出来ない状態が続いていたせいで、怪我人を収容した部屋には、いつも化膿した傷から漂う強烈な匂いが満ちていた。 だが、全てはもう過ぎ去った過去にすぎない。 今の自分は昔の自分とは違う生き物なのだ。 赤屍はらしくない感傷を切り捨てるように、聖羅に微笑みかけた。 そうして、わざと艶めいた声を作ってからかってやる。 「クス…それとも、舐めて『治療』して差し上げるのをお望みでしたか? 貴女は舐められるのがお好きですからねぇ」 「赤屍さんっっ!!」 案の定赤くなって怒る聖羅の姿を愛おしく思いながら、内心そっと呟く。 ──本当に、貴女は興味深い方だ。 この赤屍蔵人の心を揺さぶり、良くも悪くも人間らしい感情を呼び覚ますのですから、ね──と。 |