定時から4時間も過ぎたフロアには人の影もほとんど無く、静かな室内にはあたしともう一人分以外の影は無い。あたし達の頭上にある蛍光灯が静かな音を立てながら室内に灯りを供給してくれている。 昼間の雰囲気と違ってこのフロアが重苦しいのは、そんな静かさや限られた灯りのせいだけではなくあたしも「彼」も疲れ切っているからだろう。 「……あぁー!!だりぃ!!」 「……井上さん、うるさいですよ…。」 「あぁ?別に人なんか居ないんだから大声のひとつやふたつ出したっていいだろ。」 「いやいや、あたし居ますから。でも、もう上がりますけどね。」 「は?須藤もう終わったの?」 「はい。だから手伝いましょうか?」 「いや、もう遅いしオマエは自分の終わったなら帰れ。俺もそろそろ切り上げるし。あ、でも俺の一服に付き合ってくんない?もう俺限界。煙草吸いてぇ。」 「良いですよ。それじゃあ荷物まとめてから行くんで先に喫煙所行っててください。」 デスク周りを片付け一旦ロッカーに向かい帰り支度を整えて、喫煙所に向かうと井上さんはベンチに浅く腰をかけダラリと体制を崩しながら煙草をくゆらせていた。そんな彼の隣に行く前にコーヒーを買おうと自動販売機の方に向かうと「ん。」と自分が飲んでるのとは別に井上さんがコーヒーを挙げて見せてくれた。 自販機から井上さんの方へと行き先を変え、コーヒーを受け取る。「いただきます。」とお礼を言って、バッグからチョコを取り出し井上さんに差し出せば今度は井上さんが「お、ありがとな。」とお礼を言ってそれを受け取った。 ベンチに座りバッグの中から自分の分のチョコを取り出し口に運ぶと口いっぱいにチョコの甘さが広がって行く。そのまま井上さんに貰ったコーヒーを流し込めば、今度は甘さと苦さが混ざり合って咽喉の奥へと流れ込んでいった。疲れた身体を労わる様な甘みと、疲れを吹き飛ばす様な苦みが心地良い。 「ああー、疲れたな。」 「疲れましたね。流石に首と肩ガチガチです。」 「俺も荷物まとめてくりゃ良かったな。このまま帰りたい…。」 「消灯はちゃんとして帰ってくださいよ。専務の朝一見回りで消灯忘れ見つかるとお小言が酷いんですから。」 「専務ってそれ以外何してんだかな。毎朝誰よりも早く来て見回り。勤務時間中も何かと見回り。俺、社内徘徊してる姿以外見た事無いんだけど。」 カチっとライターを鳴らし、吸い込んだのはチョコの甘さともコーヒーの苦さとも違う煙草のメンソール感。それを息と一緒に吐き出すと白い煙が換気扇の方に向かって流れて行く。 あぁ、それにしても疲れたな。今日は早めに帰れると思ってたらまさかの定時直後にトラブル発生。当然そのままにして帰れる訳も無く今の今まで後処理業務に追われていた。家に帰ったらご飯よりも先にゆっくりお風呂に浸かって、この身体に纏わり付いてる疲れを綺麗に洗い流してしまいたい。 「そういやぁ、今日は定時だったな。」 「はい?」 「はい?じゃなくて佐倉。」 「あぁ、今日は大学の時の友達と会う約束してたみたいです。」 「ふーん。へぇー。」 「……何ですか?ニヤニヤして…。」 「いや、須藤が普通に答えるから。」 健吾君と付き合ってる事は何となく社内で内緒にしてる。社内恋愛禁止だとかそんなルールは無いけれど、同じ部署なだけに周りからの目が照れ臭かったり仕事が遣り辛くなるんじゃないかと思って。 だけどマナと井上さんには付き合って半月くらい経ってからだけど健吾君と二人で報告した。飲み会の帰り道、四人になった時に「実は…、」と切り出したら二人とも驚く事無く「あぁ、やっぱそうでしょ。やっとそうなったか。」とお祝いしてくれた事に少し戸惑った。 「そうなったか」と言う事は何度か「二人って良い雰囲気〜。」だとか言ってたのは冗談ではなく、本当にあたし達はマナと小林さんの目にそんな風に映っていたのかと。だからと言って必要以上に冷やかすことなくあたし達が報告するまで見守ってくれてた事でもあって。 それに気付かなかった事を申し訳無く感じ、そして二人の温かさに胸が熱くなった。健吾君との恋はあたし達二人の気持ちだけではなく、こうやって周りからも大切にしてもらえているのだと。 「それに、今まで須藤って自分の彼氏の話とかするタイプじゃなかったよな。」 「井上さんは割りと話しますよね。奥さん、結婚式でしか見た事無いのに井上さんから色々聞くから何だか凄く知ってるような気がします。」 「俺だって今まで彼女の話なんてあんましない方だったけどな。嫁の事はなんつーか、愛してるし?結婚するくらいだもんよ。」 「大抵、ノロケ話というよりはアホな事して怒られたって話を聞かされてますけどね。」 「ばーか、愛してるからアホな姿だって見せてるって事だろ。」 井上さんが結婚したのは3年前。あたしが入社した時にはまだ奥さんと付き合ってもいなかったし、別の彼女が居たと思うけど、確かに当時その彼女の話を聞く事は無かったと思う。そう言えば、井上さんの口から彼女がどうだとか聞く様になったの今では奥さんになった彼女と付き合い始めてからだったような気がする。 あたしも健吾君と付き合う前に何人か付き合っていた人は居るけれど、井上さんに限らず社内の人に何か聞かれて素直に答えた事なんて無かった。マナとはそうゆう話題になれば当たり障り無い程度にしたけれど、あまりあたしがそうゆう話をしたがらないと知ってマナから話を聞かれる事もあまり無かった。 井上さんにとってあたしも健吾君も気に掛けてくれる後輩だからとか、それだけじゃなくて多分健吾君が違う会社の人間だったとしても、あたしは井上さんにきっとこうして自然に答えてしまえる気がした。 「結婚したら…」20歳を越えてから恋人に対して一度もそんな想いを抱かなかったわけではない。だけどいつだって「いや、この人と結婚…?」という想いが少なからず有った。でもいつだって結婚に結びつく事無く別れるに至った訳で。 だけど井上さんの話を聞いて「健吾君の事、結婚するくらい好きか?」と考えてみたら今まで付き合った人みたいに引っ掛かる事なんて無い事に気付いた。まだ先の事は分からないけれど、きっとあたしは健吾君に対して今まで付き合った人達とは思い描けなかった未来を心のどこかで既に意識しているのかもしれない。だから井上さんが奥さんと付き合うようになってから、自分の色恋話をしてしまう様になった気持ちが分からなくも無いように思えた。 「ついでに、仕事の面でも変わったよな。」 「え?」 「誰にも頼ってない訳じゃないけど肝心なところは全部一人で抱え込んでって感じだったろ?それでもまぁ須藤は要領が良いし仕事も早いからきちんとこなせてたけど、でも最近は佐倉だったり小林だったりにそれなりの仕事も任せてるだろ。」 「……そうですね。なんか前より気持ち的に楽になりました。」 「仕事が出来るってのは良い事だけど、オマエは昔から一人でがむしゃらな感じがしてたから。」 「それを言うなら井上さんもですよね。私が進めてる案件でこっそり客先に話を通してくれてたり。見て無い様で、気付いて無い様で、自分の仕事やりつつちゃんと部署内の細かい仕事までフォローしてくれて。今まで口にしなかったけど、井上さんのそうゆう仕事ぶり実は昔から凄く尊敬してます。」 「おい、なんでそうゆう大事な事を普段から口にしない訳?」 「だって、褒めたら調子に乗るでしょ?」 「ははっ、確かにな。先輩までそんな風に扱えるんなら、オマエ本当に将来大物になると思うわ。」 「先輩って言うか、お兄ちゃんみたいなんですよね。井上さんって。」 「須藤も後輩って言うより妹みたいだけどな。だから仕事も佐倉との事も上手くやって欲しいよ、兄ちゃんは。」 「それはまぁ…、出来る妹ですからご心配無用です。」 「よく言うよ。仕事はまぁ大丈夫だろうけど恋愛は経験どうこじゃなくて常に不器用って感じプンプンするぞ。」 「………兄ちゃん、うっさい。」 「ははっ!図星でやんの!」 井上さんに軽口を叩きながらも、こうやって自分の事を話せる事、気に掛けてくれる人が居る事の大切さを噛みしめた。 今はこの場に居ない彼だけど、いつだってその存在はあたしを取り巻く環境さえも柔らかくしてくれる。 帰り道、取り出した携帯にはメールが一件。友達と過ごしてる合間に送ってくれたのであろう「今日もお疲れ様。」という一文はバスソルトよりも先に疲れたあたしの身体を包み込んでくれた。
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