高二の梅雨。その日は珍しく家族三人が揃った食卓。だけど賑やかな雰囲気なんてものはどこにも無く、まるで連日続く雨の様に何処かじとりとしていて重苦しい雰囲気だった。 そんな雰囲気の中、体調を崩し入院した祖母のためこの家を離れ実家に住むと母が言った。それに対し父は「好きにしろ」と返した。 仕事が忙しく家には寝る為だけに帰ってくる様な父だがそれでも母の夫であるのに、こうも簡単に「好きにしろ」と口にするのか、この二人は何のために結婚したのだろうと俺は思った。 続いて俺に向かって父は「お前はどうする?」と聞いたが、「お前も出て行くんだろ?」と言われている様な気がした。そして父は俺や母がこの家を出て行ったとしても今までと何ら変わらない暮らしを続けるのだろう。 「……俺も、母さんに付いてく。」 「……好きにしろ。」 二度目に聞いたそれは先程聞いたそれより冷たく感じた。そして何故か寂しさを含んでる様にも聞こえた。 「ごめんね…。」 そう呟いた母の言葉は俺に対して向けたものなのか、父に対して向けたものなのか、それとも自分に向けたものなのか分からなかった。 高二の夏休み。これまで年末年始やお盆などに訪れていた家が今日からは自分の帰る家になるんだ、とようやく母の旧姓である「藤田」と書かれている表札をぼんやり眺めながら思った。 俺も一緒では無かったら母はあの晩の翌日に家を出ていったかもしれない。だけど学校生活がある俺はそう簡単にこの身ひとつで母に付いて行く事は出来なかった。転校や引っ越しがせめて夏休み中に出来る様にと手続きや準備を進め、それでもやはりバタバタした転校と引っ越し。 「藤田」という文字を指でなぞってみた。だけど両親は離婚した訳ではないので俺も母も「秋村」の姓のまま。父と離れ、住む家まで変わったというのに。父とは居住を共にするという文字とは違い戸籍で繋がった「家族」でこれからも居続けるのだろうか。何故父も母も離婚を切り出さないのか。 表札の真ん中。窪んだ文字をなぞる指先に感覚は何も無い。 それから季節は更に廻ったある日の出来事――…。 突然、だった。「仕事で東京に来ているから会わないか?」と父から連絡が来たのは。就職か大学へ進学するかの進路の時以来。 そう言われて俺の口から「え?」と零れた言葉。その一言以上の理由は無い。久しぶりに連絡が来て、突然過ぎて、ただ一言零すだけの反応しか出なかった。 「……突然、しかも久しぶりに連絡してきたと思えば「会わないか?」って…。」 「そうだな。悪かった。」 「たまたまバイトも休みで予定が無かったから来れたけど。」 「もしお前がどんな理由であれ来れなかったらそれまでだった、って事さ。」 「……相変わらず自分勝手だな。」 「……そうかもな。」 父から突然の電話が来た一時間後、俺達は父が泊るというホテルの近くにある居酒屋のカウンターに座っていた。 父と同じ様に背広を着たサラリーマンや俺と同じ年代の若者など、満席では無いけれどそこそこ人が賑わう店内の中で俺と父が座るこの二席だけ、周りとは少し違った雰囲気。まるであの日の晩の食卓みたいだ。 だけどあの時の様な重苦しさはそれほど無い。それはきっと五年という月日のせいかもしれない。 五年前よりも小さく感じる父の背中、白髪が増えた髪、そして疲れのせいなのか年のせいなのか父から感じていた威圧感は無かった。 「で?」 「うん?」 「呼び出したって事は何かあるんじゃないの?」 「あぁ…。」 そうだな、と言葉を続け父は持っていたグラスに視線を落とした。 「お前と酒を飲んでみたかったんだ。」 「は?」 「よく言うだろ?息子が二十歳過ぎたら二人で一緒に飲みたい、ってやつだよ。」 「……父さんにもそんな想いがあったんだ。」 「当たり前だろ。父親なんだから…。」 予想して無かった言葉をどう受け止めていいか分からず、自分のグラスをグイっと一気に傾けた。 すぅーっと喉を通っていく苦みと僅かな炭酸が、いつもと違って感じる。 「本当はな、急に連絡したのはお前に断られても「急だしな」って自分に言い訳出来ると思ったからだ。俺はお前に憎まれてると思ってるし、それは仕方無いって思ってる。」 「……。」 「母さんが家を出ると言った時に引きとめなかった事、一緒に付いてこなかった事。それ以前に俺は仕事ばっかりで夫や父として家族生活を送れていなかったからな。」 「……自覚はあったんだ。」 「そりゃ、あったさ。俺は「仕事」で家族を支えてる気になってたんだ。」 「……。」 「今もそう思ってる。「仕事」を辞めないで三人で住んだあの家を守ってる。」 「何だよそれ…。」 「あの日以前に「実家に戻って母親の世話をしたい」と言われていたんだ。最期まで。俺との生活よりも母を選ぶから離婚してくれってな。」 「……じゃあ何で離婚しなかったんだよ。」 「信じないかもしれんが、あの家はお前が生まれすぐ母さんと一緒に建てる事を決めた家なんだ。子供部屋はどんな風にしよう、夫婦の寝室はどうしよう、家族が寛ぐリビングはどうしよう…。色々な事を想いながら建てた。母さんが実家に戻りたいという意思を第一に尊重したいと思った。だけど俺も一緒に行くとは言えなかった。手離したく無いんだ…。俺にとって「家族」の印であり絆だと思えるあの家を。」 二歳頃まであの家とは違う家で過ごした写真が残ってる。でも「懐かしい」とまでは思わないおぼろげな風景。「懐かしい」と思うのは物心が付いてから暮らしていたあの家。 父が居ない食卓、母との会話も次第に減って自分の部屋で一人過ごす時間が増えていった。それらを思い出すと父が言う「家族の絆」なんて感じさせる要素はどこにも無い。 だけどあの日から一度も思い出す事の無かった幼い頃の記憶がふと浮かんだ。小学校に入る前までは、父と過ごした思い出が僅かにある。リビングや庭で一緒に遊んだ記憶、ダイニングで三人で囲んだ食卓。温かい家族の風景。 「予定が無くて何となくでも、こうやってお前がここに来てくれて良かったよ。」 「……あのさ、」 「何だ?」 「憎んでたかって聞かれたら正直そうかもしんない。今日だって「久しぶりに父さんに会いたい」と思って来たのとはまた何か違う…。あの日、母さんや俺に言った「好きにしろ」って言葉は「勝手に出てけ」って意味だと思ってた。離婚しないのも体裁だとかそんなもん気にしてるだけだって。」 「……そうか。」 「だけど…、父さんの話を聞いて思い出した。俺がまだ小さかった頃、確かにあの家には家族の絆はあったって。」 「……。」 「あの家を出る間際の父さんの事は今でもロクな父親じゃないと思ってる。……でも父さんと一緒に過ごした16年間の全てが否定するだけのものだったら用事が無かったとしても父さんに会おうなんて思わない。今日ここに来て、父さんの話が聞けて、一緒に酒飲めて良かった。…とは思ってる。」 「……凜、ありがとな。」 気まずそうに、照れ臭そうに笑う父の顔。俺は父のこんな表情を初めて見た。 どちらともなく無言でグラスを交わせばカチンと小さな音が零れ、その音は暫く余韻を残す様に俺の胸の中で響き続けた。 「凜。」 「ん?」 「お前、彼女は居るのか?」 「ブッ…、……何だよ急に。」 「息子と恋バナするのも父さんの密かな夢だったんだ。」 「……何か父さんキャラ変わって無い?」 「父子水入らずなんだからいいじゃないか。で、どうなんだ?」 「居るよ。」 「……へぇ。」 「何だよ。」 「いや、正直に話すんだなと思って。」 「父子水入らず、なんだろ?」 「彼女の事大事か?」 「大事だよ。」 亜璃の顔を思い浮かべながら零した言葉は自分でも驚く程ハッキリしていた。 そして思い浮かべていた亜理の顔は吃驚した様な表情を浮かべる。吃驚した表情を想像した訳じゃないのに。俺の意思の中なのに彼女の意思を持ってるみたいだ。 でも、この場に実際亜璃が居たらきっとこんな顔するんだと思う。 「本当にその彼女の事が大事なんだな。お前のそんな顔初めて見た。……俺も母さんの事を大事に想ってるぞ。」 「傍で見てた筈の息子にはそんな風には見えなかったけど。」 「はっはっは、そう言われてしまったら返す言葉も無い。」 「……今までは、だけど。これからは分かんない。」 「……これからも母さんを大事にするよ。」 さっきの俺の様にハッキリと呟いた父の声。この場に母も居たらきっとさっき俺が想い浮かべた亜璃の様に驚いた顔を見せるのだろうか。 いや、母さんならきっと穏やかな笑みを浮かべるだろう。 これまで自分と父は似ていないと思っていたが、二人揃ってグラスを一気に空にした後同じタイミングで下唇を親指で軽く拭っていた。 そんな些細な「繋がり」に初めて気付いた夜。
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