魔法と呪いは
今日こそあの言葉を口にしようと決めていた。高校3年の頃から付き合い始めて早7年とちょっと。私たちはもうあの頃のように無邪気で居られない。
田舎では24歳ともなるとやれ結婚だ、やれ子供だと囃し立てられる年齢だ。現に私の周りの友人たちは付き合っている男性と同棲を始めたり、プロポーズをされたりしている。そんな彼女たちからの報告を羨んでしまうのは当たり前のことで、同時に妬ましく思ってしまう。そして、果たして自分にはそんなときが来るのだろうか、と不安になるのだ。
「おう、なまえお待たせ」
「ううん。行こっか」
友人にそんな不安を漏らすたびに“なまえは長く付き合ってる彼氏がいるんだから安泰じゃん”と言われる。確かに孝支とは長く付き合っているし彼の職業は公務員だから、安泰と言いたくなる気持ちも分からなくはない。
だけどそれは、私が彼と結婚出来ればの話だ。その仮説はわたしには当てはまらない。
「孝支、今日はちょっと遅かったんだね」
「あー…、そう。なんか仕事溜まっちゃってて」
「ふうん。3年目になっても大変なんだね」
まあな、と歯切れの悪い返事。私はその反応の理由を知っている。
彼は、職場で浮気をしている。今日はその子の残業を手伝っていただけで、自分の作業はきっと無い。横に並んだらふわりとその子の甘い香りがして胸が締め付けられた。ホワイトムスクのその香りは私の持ち物からすることはないし、もちろん彼がそういう香水をつけることもない。
彼の浮気に気付いたのは半年前のことだった。珍しくベロベロに酔っぱらって電話を掛けてきた孝支は、そのままなし崩しに我が家にやってきた。そこで呼んだのだ、“彼女”の名前を。
「…サクラ。」
買ったばかりのソファに体を擡げながら、こくりこくりと舟を漕ぐ。あまり見ないその姿を心配しながら水を渡すと、寝惚け眼で他の女の名前を零した。
背筋が凍った。今までそんなこと想像もしていなかったから。友人が顔を歪めながら元カレの浮気の話をするたびに、他人事として捉えていた。自分の恋人がそんなことをするわけない、と慢心しきっていた。
取り乱しそうになるのをグッと堪えた。頭に血が上ったのは一瞬で、そのあとの私はすごく冷静だったと思う。
まず名前の主を調べた。高校時代の友人、大学時代の友人、その他SNS。本人にバレないよう、少しずつ探りを入れて行った。そうして辿り着いたのが、孝支の小学校に今年から新任でやってきたサクラという名前の女だった。
そこから半年。気づいてからすぐ別れようかと思っていた。昔から「もし浮気したら即別れる!」と本気ではありつつ冗談交じりに宣言していたし、傷つけられても別れない友人のことをあり得ないと思っていたから。
だけどいざ自分が直面しては、付き合うよりも別れるほうが難しいのだと分かった。彼のぬくもりも、優しさも、素敵なところも全部身体に沁みついている。ズルズル引きずったままここまで来てしまった。
今日は私の25歳の誕生日。だからこそ、言うしかないと思っている。
「なんかあった?」
「? なんで?」
「…いや、静かだなって。いつもより。」
孝支は誕生日の私のため、いつもより良いお店を予約してくれていた。和牛のステーキをコースに含んだお料理たちはどれも美味しくて舌鼓をうつ。だけど脳内にはやっぱりあのことがあって、ふとした瞬間に今日で最後なのかと思い知らされる。
「なんでもないよ。」
まだ、せめて、今だけは。最後のデザートが終わるまでは、あなたの優しさを独り占めしたい。まだ、“私”の孝支で居て欲しい。
コース料理を平らげていくたびに、終わりに近づいていく。心が揺らいでしまう前に早く終わって欲しいような、まだゆっくり食べていたいような。
「孝支」
「んー? うまいなあ、これ」
「聞いて欲しいの」
甘いものよりも辛いものが好きな彼は、デザートを食べるのが遅い。真逆の私は美味しすぎるスイーツをあっという間に平らげ、まだ手を動かす彼をじっと見据えた。
空気がピリつくのを感じる。きっとこの先の言葉、気づいてるでしょう?
高校1年の時から、ずっと片思いをしていた。バレーボールをする君が好きだったから、部活の邪魔はしたくないとそばで見守り続けた。彼らが春高の舞台で輝いたとき、自分の気持ちに必死に蓋をしていて良かったと心から思った。
告白したとき、俺も好きだよと笑った孝支を見て、男の子にこんな表現をするのは不束かもしれないけれど純粋に綺麗だと思った。まるで、小説みたいだと思ったんだ。
「…」
「別れよう」
目の前の彼は、悲しんでも驚いてもなかった。困ったように眉を下げて、こくりと頷いた。私は必死に笑顔を作る。君にかかった7年分の魔法を解くから、自由になっていいよ。
「……今日はありがとう。今までも、ありがとう。」
ああやっぱり、呆気ない。私の10年の想いは、こんなたった一言で無かったことになるんだ。世間的にいう結婚がゴールなら、私の10年は全部無駄だったということになる。
「さようなら、孝支」
だけど、無駄になんかしたくない。あわよくば彼が私の所に戻ってきますように、と。10年分の魔法を解いて、一生分の呪いをかけた。