午後0時のシンデレラ

高校入試よりも、センター試験よりも、会社の面接よりも緊張している。今まで経験してきたそのどれよりも興奮している。ふわふわして、しっかり目の前を見ているはずなのにここにいないような気分だ。

東京オリンピック 男子バレーボール第13日目。
今日はここ、東京にある有明アリーナで日本対アルゼンチンの試合が行われる。今までアルゼンチンに二連敗している日本のサポーターたちは、今日こそと奮起していた。日の丸を背に入場してきた選手たちはまさに太陽のようで眩しい。全身に鳥肌が立って、なぜだか泣いてしまいそうだった。

「ああ〜!影山選手かっこいい!」
「美香ちゃんは影山選手のファンなんだっけ?」
「んん、でも宮選手もかっこいいし、牛島選手のタッパの良さも捨てがたいよねぇ!でも木兎選手のキレッキレストレートも…」

隣にいるのは、会社の同期で仲の良い美香ちゃんだ。彼女が男子バレーファンということは知っていたけれど、私がバレーボールを観たいと言ったら目を輝かせて超倍率の高いチケットをもぎ取ってくれた。本当に感謝しかない。

「なまえは誰のファン?」
「あー…私は、」

一層会場が湧き立つのが分かる。歓声、熱気、それぞれへの期待。日本と同じく「太陽」を背負ったアルゼンチン代表の真ん中にいる人物。日本とは真逆の「太陽」。高らかに手を挙げて笑うその人が、私をコートに連れて来た人物だった。
アルゼンチン代表の中で、ただ一人異色を放つ話題の日本人。無名の高校時代から単身地球の裏側に渡り、いつの間にかその国に帰化してしまった人物。遠くて、近くて、やっぱり遠い人。及川徹は、そんな人だった。


「俺、全員倒すんだ」
「え?」
「本当はなまえちゃんとずっと一緒に居たいけど、それじゃあ"全員"は倒せないから」

付き合っていたのも不思議なくらいだった。それでも付き合ったのは高校卒業前のたったの3か月だったし、アルゼンチン行きを知ってそんなことを言われたのは卒業式だった。悲しくて、悔しかったはずなのに、その時の私は意外と冷静だった。全部期限付きだって、もしかしたら心のどこかで分かっていたのかもしれない。及川徹は、そういう人だって。

寧ろそうであって欲しかった。日本より大きなところに行く人で居て欲しかった。


地球の裏側に拠点を構える人物が、目の前にいる。もう何年会っていなかったのか数えられないほどの時間が経っているのに、目の前に本物がいると思うと胸が熱くなった。それが感動なのか、そういう類の感情なのかは考えないようにした。
もしかしたらこんな機会は最後になってしまうかもしれない。彼の試合を生で見れるのは最初で最後かもしれない。そんな思いを抱えて、目の前の試合を必死に目に焼き付けた。

「キャーー!」

隣の美香ちゃんは、影山選手と初めて見る選手…よく飛ぶ彼の速攻が決まるたびに飛んで喜んでいた。そのたびに私は相手チームに感情移入してしまう。
だけど及川くんは、笑っていた。高校の時に一度だけ見た試合の表情とは全く違う、楽しそうな顔。バレーが大好きで、この人たちと戦えるのが楽しくて仕方ないと、全身から溢れ出ている表情。

それを見られただけで私は幸せだ。

彼の全てに釘付けになっていた。唯一の日本人…いや、アジア人なのにしっかりとチームの中心にいるところ。彼が入るとコートの空気が変わるところ、その人に合わせた、その人のためだけのセットアップ。随所に今までの努力がにじみ出ている。きっとバレーボールが好きで、嫌いで、でもまた好きになって、そうして彼は強くなったんだろう。

私はバレーボールに特段詳しいわけではないけれど、彼がどれだけ努力したのか、それだけは分かっているつもりだった。私が分かっているのもほんの一握りかもしれないけど、それでもここにいるファンの誰よりも彼のことだけは分かっていたかった。


試合時間は、体感5分くらいだったように感じる。初めて生で見たプロの、それも世界の最高峰にいる人たちの試合は私の興奮を高める材料としては十分すぎるくらいで、ずっと手を握り締めて見入っていた。
及川くんは勿論、アルゼンチンの選手たち、そして日本の選手たち。それぞれがバレーを楽しんで、ずっとずっとやっていたいと言ってるかのような試合だった。
ピーと笛の音が鳴り、会場中からアリーナが割れてしまうんじゃないかと思うくらいの歓声が聞こえた。
皆、晴れ晴れとした表情だった。最後にボールがコートに落ちた日本の選手も、なぜか晴れやかだった。次は絶対に勝つ、と。

「美香ちゃん、本当に連れてきてくれてありがとう」
「なまえのお目当ては日本代表じゃなかったみたいだねぇ?」
「あ…、うん。」

にやにや笑った彼女は、まぁ楽しんでくれてよかったよと私の肩に触れた。

「え、なまえ」

私の肩から手を離した美香ちゃんが焦ったように私の名前を呼ぶ。導かれるように振り返ると、そこには彼がいた。ザワザワと周囲の声がうるさいのに、全部の音が無くなっていく不思議な感覚。

「やっほー、なまえちゃん」
「なん、で……」

ひらりと手を挙げた及川くんは、まるであのペールグリーンのジャージを着ているかのような調子だった。

「迎えに来たよ」
「え?」
「全員、ではないけど、一番倒したい相手を倒した。だから次はなまえちゃんを捕まえに来た」

さっきまで、あの公式ボールに触れていた手が私の頬に触れる。熱を持っていて熱くて、昔よりもカサついた掌が頬を撫でると、頭が真っ白になった。全部、掌から伝わってきてしまった。

「ずっと好きだよ。別れようも言ったつもりないけど、なまえちゃんが別のやつを好きになって幸せならそれでいいと思ってた。だけどさ、いるんだもん。俺のことちゃんと観てんだもん。捕まえるしかないでしょ」
「…馬鹿なの?」
「馬鹿はなまえちゃんでしょ。まだこんなとこにいるなんて」

本当は期待していた。全員倒すために地球の裏側に行った彼が、それを成し遂げた時にどうなるのだろうと。もしかしたら私のことを思い出して苦しくなったり、会いたくなったりしてくれないだろうか。そんな理想を浮かべては押し込めて、そうしているうちに会いたくなるのは私の方だった。
好きで好きでたまらなくて、忘れられないのは私だけだと思っていたのに。

「ちゃんと、大事にしてみせるから。全部手に入れられる覚悟も実績もできたから。だから…、一緒に居ようよ。」

涙で視界が歪んで、必死にその言葉に頷いた。
頬に添えられていた手が私の腰に回って、熱すぎる体温が全身を駆け巡った。あぁ私、及川くんに抱き締められているんだね。

回った腕が僅かに震えていた。精一杯の力で抱き締め返すと、また同じだけ返ってくる。それがどんなに幸せで愛しいことなのか、実感せざるを得なかった。

「あ、俺のことは撮ってもいいけどなまえちゃんのことはダメ!」

バッと顔を上げた及川くんはギャラリーに視線を向ける。視界に入ったのは無数のスマホとカメラ、そして泣いている美香ちゃんだった。あれ、私なにしてるんだっけ?
状況を理解してしまえば恥ずかしくて穴があったら入りたい。それでも及川くんは飛び切り幸せそうに笑って「もう見せつけちゃお」と抱き締め直した。その行動は真っ赤になった私の顔を隠すための優しさで、ちょっとの独占欲で、それでいて10年分の愛だった。

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