あの日のオレンジ

引っ越し準備に追われた週末。来週にはこの部屋を出なきゃいけないのに、この部屋には二人の思い出がいっぱいでいちいち手が止まってしまう。
付き合い始めて一年ちょっと経った頃にひとまず転がり込んだ孝支くんのこの部屋。それでもいい加減に不便なことも多くて、孝支くんの部屋を更新する時期が来たこのタイミングでやっと広いお部屋に引っ越しを決めた。今私たちは、その準備に追われている。

「…これ、」
「あ、懐かしいなぁ。ソレ。」

孝支くんが使うアクセサリー類がごちゃっと置かれている棚の奥に、香水の瓶を見つけた。多くの種類を付け替えるタイプではない孝支くんは、使う香水が大体決まっている。でもこれは、今までに見たことがないパッケージだった。

「これ、高校の時ちょっとだけ使ってたんだよな。部活引退して、おしゃれになりたくてさ。ちょこーっとだけ。」

当時を懐かしむように柔らかい笑みを浮かべた彼は、キャップを外して空中にワンプッシュしてみせた。ふわりと香る、甘いムスクのようなベースの中に少しだけグレープフルーツが顔を出す爽やかな香り。嗅いですぐ、思い出した。これは、大好きな彼の匂いだ。あの時の思い出が全部一気に巡ってきて、グッと胸を掴まれる。

部活を卒業した菅原くんに告白したのは私からだった。
バレーボールを見るのが幼い頃から大好きで、よく練習を見にいっていた私が彼に恋をするのにはあまり時間がかからなかった。だけどバレーに打ち込む菅原くんを邪魔したくなくて、告白をするなら引退後だと決めていた。だからその、勇気を振り絞りたい時期にしていた香りだ。
すれ違うたびにふわりとこの香りがして、心臓がバクバクしたのを今でも鮮明に思い出せる。苦しくなって、今にも飛び付きたいくらいに愛しく思っていたこと。切なくて、今すぐにでも好きと言いたかったあの頃。勇気が出なかった自分の不甲斐なさ。

「…思い出しちゃったな」
「なにを?」
「この香り。孝支くんが大好きで大好きで堪らなかったなって」

この香りを嗅いで一喜一憂していたあの頃の私に、今の状況を伝えても信じてもらえないかもしれないな。これから本格的に二人のおうちができるだなんて。

「この香り、大好きだったの」
「知ってるよ」

ふふ、と笑った孝支くんは、あの時を思い浮かべている。
きっと私も今、同じような顔をしているのだろう。

「…え、なんで?」
「だってなまえが好きって言ったから、ずっと付けてたんだもん」
「え?……え?」

「これ、旭のお下がりで。もらったその日試しにつけてたら、なまえがいい香りする。好きだなって言ったんだよ。俺単純だから、それからずっとつけてた」

…覚えていない。あるはずの記憶を手繰り寄せるけど、その光景を思い出すことができない。そんな会話をしていたなら覚えていたかった。私の馬鹿。

「告られるより前からなまえのこと好きだったし、香りが好きだって言われたのわかってるのに『好きだな』なんて言われるから舞い上がっちゃってさ。あの頃の俺、かーわいい」
「じゃあずっと両思いだったのかな。私この香り嗅ぐたびに胸がぎゅーってなって、会えて嬉しいのに切なかったんだよ」
「……そっか、」

孝支くんは照れ臭そうに笑って、首元に手を回した。これは、照れている時の仕草だ。

「なんか、いいなぁ。こうやって答え合わせしていく、みたいなの」
「答え合わせ?」
「今この瞬間も、何年か後にはあの時こう思ってたっていう答え合わせになるべ?それが、超幸せだなと思うの」
「……うん、そうだね。」

「だからさ、俺と結婚しませんか」

よく陽が入るこの部屋で、夕日に照らされた孝支くんは真っ直ぐ私だけを見ていた。それはまるで、好きですと告げたあの日の教室みたいで、涙が込み上げてくる。

「…けっこん」
「うん、結婚。3年後も、5年後も、10年後も、その先もずっと。今日みたいにあの時の俺たちはこう思ってたよって、幸せだな〜って、答え合わせしよう。」
「っ…うん、」

見ていたいのに、視界が歪んでいく。笑いたいのに、涙が止まらない。もっと笑顔で、ずっとずっと一緒にいようって言いたいのに、ぐちゃぐちゃになってしまう。
精一杯の一言は、孝支くんにちゃんと届いているだろうか。顔を上げると、同じように目に涙をいっぱい溜めた孝支くんが笑っていた。もしかしたら、私もこんな顔をしているのかもしれないな。

「ずっと、一緒にいよう」

もう一度笑った彼は、あの日の教室みたいに私の身体をぎゅっと抱き締めてくれた。あの頃は切なかったグレープフルーツの香りが、またひとつ幸せで上書きされていくんだ。

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