名付けられなかった境界線
「はぁ?ちょっとなまえちゃん何してんの!?」
「げ」
自宅まであと少しのバス停の屋根の下、ずぶ濡れになった私は雨宿りをしていた。今日雨が降ることなんてつゆ知らず、私はテスト期間で早く帰宅できることが嬉しくてルンルンで帰路についていた。
そこで遭遇したのはバケツをひっくり返したかのような大雨。見事にびしょ濡れになった私は、慌てて屋根のあるバス停に駆け込んだけど時すでに遅しだった。
よりによって見つかったら一番面倒な相手に見つかってしまった。下手したらお母さんの小言よりも面倒臭い。
「げって何、ひどくない!?そんなことより、なんでずぶ濡れ!?傘持ってないわけ?女の子なのに!女子力低すぎじゃない!?」
「え、ウッザ」
「ねぇ、酷くない!?」
この男、及川徹は、私の一つ年上の幼馴染だ。世間一般で言うと顔が良くて、身長も高くて、運動もできる。それでもウザい。性格が非常に悪い。そしてウザい。
ふわりと頭に被せられたのは、普段徹が部活で使っているタオルだった。眉を顰めたら、部活ないし!使ってないから!と慌てて弁解されたのでありがたく滴る水滴を拭かせて貰う。及川家の柔軟剤の香りが鼻をついて、なんだか懐かしい気持ちになった。
この香り、ずっと変わってないんだなぁ。
通り雨は、未だにザーザーと勢いが劣ることなく降り注いでいる。
できることならば、一刻も早くここから去りたいのに。
「最近、なんで避けてるのさ」
「え」
「さすがの俺でも気づくし、幼馴染にそうやって避けられるのは結構堪えるんですけど」
ぎくりと、あからさまに反応を示してしまったことに後悔した。そんなことないよ、と誤魔化してあっけらかんとできれば、この先の気まずさは変わっていたのかもしれないのに。
「俺、お前になんかした?」
私から湿ったタオルを取り上げた徹は、真剣な顔をしていた。いつもの巫山戯て冗談を言う顔でも、岩ちゃんに殴られてもなお調子に乗っているようなウザい顔でもなかった。
雨に濡れたワイシャツが肌にへばり付いて気持ち悪い。
今度こそ、今すぐここから逃げ出したくなってしまった。
「ねぇ、答えてよ」
「…避けてなんて、」
「答えろ」
私の腕を掴む手の力が驚くほど強かった。痛いほど握られて、振り解くこともできない。
「徹が、他の女の子とばっかり仲良いから」
「…へ?」
嫌だった。中学までは違う学年と言えど幼馴染の余裕があった。だけど一足先に高校生になった徹は簡単に彼女を作っていたし、それは私が入学しても変わらなかった。いつでも女の子が隣にいて、いつでも女の子が徹を囲んでいた。バレーの応援に行っても私の声は届かない。ここにいる私の存在には、気づかない。
そうして私にとって徹は、幼馴染よりももっと存在になってしまった。見かけるたびに胸がずきんとなる、そんな存在になってしまった。
「徹が他の女の子といるのを見ると苦しくなるから、視界に入るのが嫌だった。だから、」
「…なんなの、お前」
とん、と背中に壁がぶつかる。徹の手が顔の真横に突かれて、私よりも遥かに高いところにある冷たい目に見下ろされた。怒ってるような、照れてるような、よくわからない顔。このブサイクな顔を見たら、もしかしたら徹のファンも減るかもしれないな。
「今からキスするから、嫌だったら殴って逃げて」
「…は?何言って」
「するから」
何を言ってんだと呑気に考えている場合ではなかった。及川家の柔軟剤の匂いが強くなったかと思うと、徹の手は私の濡れた後頭部へと廻る。避けなきゃ、戻れなくなる。それでも身体は動かなかった。
殴るとか、逃げるとか、できるわけがないじゃないか。
きっとこいつは、分かっていて言ったのだ。私が徹を拒絶することなんて無いって分かってて、言った。ドキドキと心臓が煩くて、全てがスローモーションに感じて、そうして触れたのは柔らかな唇。
「…ほんと、なまえは厄介だよ」
「な、に…」
カッと顔に熱が集まる。してしまった、徹と、キスしてしまった。
徹の視線は、私の胸元に注がれていた。辿るようにそちらに目をやると、雨に濡れたせいでシャツが透け、下着が露わになっている。
あぁもう、最悪。
キスした挙句に下着まで晒してしまうなんて。
「…さいあく、」
このまま爆発してしまうんじゃ無いかと言うくらい、顔が熱い。
じんわり、涙が滲んで、目の前の男を睨みつけた。
「あのさ、その顔逆効果って分かってる?」
「なんなの、ばか、へんたい」
「…あぁー、もう、黙って、ほんと」
半ば投げつけられるようにして渡されたのはバレー部のジャージで、これまた徹の香りがした。苦し紛れにジャージを抱き締め、顔を埋める。今はまだ、私のブサイクな顔なんて見ないで欲しい。
「…帰るよ、」
「うん」
「家、行っていいよね?」
「…うん」
「俺のこと、好き、だよね?」
「………言わない」
分かっているくせに、全部全部。