この男は
昇降口の前で立ち止まった私は、じっと向こう側を覗く。何度睨みつけてもザーザーと降り注ぐそれは、きっと止むことは無いだろう。
今日、雨だなんて誰が決めたの?最悪だ。
「最悪だ。」
あれ、声に出てしまったのかと驚いたけど、発せられたのは私の声ではなかった。脳に浮かぶ全く同じ台詞は、真隣からわたしの右耳に吸い込まれていく。
「なまえも傘ないの?」
「んぁ、うん。雨降ると思ってなかった。」
彼はクラスメイトの菅原孝支くん…この間誕生日を祝われていたからきっと18歳。男子バレーボール部に所属する彼は、優しくて明るくてクラスのムードメーカーだ。女子たちが実はイケメンだよね!と噂しているのをよく耳にする。
そっか、テスト期間だから帰るのか。と理解した時には私の右手は彼の左手に掴まれていた。
「は?」
「走んべ」
うんともすんとも言わせぬまま、私の身体は雨に打たれる。ぽつぽつと雨粒を受け止めて、制服の色がじわじわ変わっていった。そうだ、この菅原という男はたまに奇怪な行動をする。
例えば、教室に残って勉強をしていた私を見つけては"いつも偉いな〜!"と髪の毛を乱してきたりする。
その時は確か、何も言わない私を見て真っ赤になったあと、"いつもこうやって後輩のこと撫でるから癖でつい…"とすぐさま手を引っ込めていた。ふんわりとお花が咲いたように穏やかな気持ちになって、実はちょっと嬉しかったということは彼にまだ伝えていない。
腕を掴まれたまま、見慣れた道を走る。傘を差してゆったりと歩く生徒たちが、みんな私たちを見ているような気がした。まるで、あの映画のワンシーンみたいじゃないか。
ふと目をやった右腕は、彼の左手にしっかりと掴まれたままだった。その事実を認識した途端、じわじわと熱を持つ。その熱がせり上がって、全身を流れるような感覚に襲われる。毒素のように全身を巡ったそれが心臓に到達したとき、どくんと胸が鳴った。
「はぁ、濡れちったなー!ちょっと待ってて」
学校から一番近いコンビニの前で、彼は突然立ち止まる。ぶつかりそうになりながら慌てて身体にブレーキをかけると、肺が痛くなるほど呼吸が乱れていることに気が付いた。
私はこんなにも息切れているのに、目の前の彼は最もいつも通り平常運転だ。さすが運動部だと感心しているうちに彼は店内に吸い込まれていく。
と思ったら、手にビニール傘を一本持ってドヤ顔で帰ってきた。何故、一本。
「はは、びっしょびしょじゃん!」
「いや、誰のせいだと思ってるの?」
「まあまあ、ほら!これで濡れないし。…の前に、風邪引くか。」
スクールバッグを漁った彼は変わらず得意げに笑いながら、私の頭にタオルを掛けたあと、"犬か!"と突っ込みたくなるほど雑に拭いた。柔軟剤の香りが鼻につき、お腹から何とも言えない感情が沸き上がる。
…沸騰しそうだ。
「これで良し!家どっち?」
にかっと爽やかに笑った菅原は、当たり前のように私の上で傘を広げて隣に並んだ。なんだこの人は。至極当然にこっちのペースを乱してくる癖して、ちっとも嫌じゃない。救いようがないくらいに可笑しな人だ。
「あっち」
「げ、反対かよ!先に言えよ!」
言う暇もなく走り出したのはそっちじゃないか。それに散々濡れた後に傘差したってそんなに意味ないんじゃないの。皮肉の籠った言葉の一つや二つぶつけてやろうと思ったのに、彼の横顔を見たら毒素が抜けて行ってしまった。
じんわり温かくて、ふわっとする。
「ま、こうやって一緒に帰れてるし、俺にとっちゃあラッキーってことで」
ふと見上げた横顔に、とてつもなく胸が苦しくなる。ゆったりと歩くこのペースでは、もう全力疾走のせいだと言い訳することはできなかった。
この男は、つくづく人のペースを乱すのが得意なようだ。