ノクターン 第20番
寒さに震える身体を抑えながら起き上がると、お気に入りの遮光カーテンから朝日が漏れていた。いつもならけたたましく鳴り響くアラームに叩き起こされるはずなのに、今日はそれよりも早く目が覚めてしまったみたいだ。
のそり、冬眠から目覚めた熊のように気だるげにベッドから抜け出す。
広い方が良いだろう、と話し合って買い替えたダブルベッドで朝を迎えたのは、今日も私だけ。
あの人が好きなクラシックを、良いやつなんだと得意げに言っていたスピーカーで再生する。食パンをトースターの中に丁寧に入れて、この間駅前にできたショップの珈琲豆をチョイスして珈琲を淹れる。早起きをしたから、いつもよりちょっぴりだけ優雅な朝食。
あなたが居たらもっと幸せな朝食なのに。
「おー、起きとんのか」
リビングの扉を開けて入ってきたのは、クリーム色の髪をした男。この男は毎週水曜日に決まってやってくる。
たまに他の曜日に来るときもあるけれど、こうやって朝食を食べている時にやってくるのは大体水曜日。特に何をするわけでもなく、この家にやってきて少しくつろいでまたどこかへ出かけていく。
実に不思議な人だ。当たり前のようにこの家の鍵を持っていて、出入りをしている。
だけど私はこの男の存在が嫌なわけではない。寧ろ退屈な日常に少しだけ色を添えてくれるこの人は、好きの部類だ。彼が入ってきたせいで冷たい風が頬に触れて、ふるりと身震いをした。
「おはよう、バクゴウさん。」
「調子は。」
「今日はアラームの前に目覚めたし、なかなか良いみたい。バクゴウさんも一杯どう?」
私は、厄介な病気を持っている。朝目覚めた時、急にとてつもない憂鬱に襲われたり、見えるはずのない幻覚が見えたりする。自分自身がどうでも良くなって、早く楽になってしまいたいような、そんな気持ちになってしまう。
そんな日は、なぜか決まってバクゴウさんがやって来て、私にちょっとした光をくれるのだ。その光は日によって違う。何故か懐かしさを感じる綺麗なネックレスだったり、とっても味が好みなケーキだったり、様々。
それを手に取ったり口に入れたりするだけで、私の憂鬱は嘘のようにスゥッと晴れていく。
「ブラックで頼むわ」
「あれ、珍しい。バクゴウさんはミルクとお砂糖一つずつじゃなかったっけ。」
コポコポ、お湯が煮立つ音。その落ち着く音がピアノの音と混ざって白い部屋の壁に吸い込まれていく。
「……俺じゃねぇよ、」
「…そう」
『男なのにブラックが飲めないなんて恰好が付かないな』
どこからか、聞き覚えのある声がした。誰だっけ、そんな話をしたのは。そういえば、この珈琲は、誰に飲ませたいと思って淹れたんだっけ。
このクラシックを好きなのは?このスピーカーは?この家の、本当の持ち主は?
「っおい、」
「…ッ、は…はぁ‥、だ、…だれ…?」
ガシャン!と手から滑り落ちたポットは、床に液体を飛び散らせた。真っ白なフローリングには、みるみるうちに珈琲の褐色が広がる。
ぽたぽたと浮かぶ水玉に、心臓が握り潰されるような感覚。立っていられずその場にしゃがみ込むと、フリース生地の部屋着に珈琲が染み込んだ。
「落ち着け、こっち見ろ」
大きくて暖かい手が震える背中を撫でた。安心、する。こんなこと、前もあったような気がするな…。
いつ、だっけ。
「おはようございます。これからみょうじさんの所ですか?」
「おー、昼前には戻ってくるわ」
水曜日は、あるマンションの一室に向かうことから始まる。その部屋には女が一人で住んでいて、その人は俺の同期の婚約相手だ。正確に言えば婚約相手、だった。
二年前、大規模ヴィラン襲撃に巻き込まれたのち、旦那である俺の同期は殉職した。一緒にいた彼女を守り抜くため、その選択を余儀なくされた。別現場に居た俺が駆け付けた頃には辺りは血の海、残虐すぎる事件として大規模に報道された。
プロヒーローになって6年。今では高校卒業して入所した事務所から独立し、個人事務所を持っている。けど、あんなにも赤い世界を見たのはあの時が初めてで、それ以降も未だ無い。
事件のショックから脳内で記憶の改竄、体調不良がある彼女の経過観察をすると申し出たのは俺からだった。長期的かつ、此方としても精神が参る可能性があることだと分かっていた。
それでも俺は、彼女を他の誰か見知らぬ奴に任せることができなかった。
「おはよう、バクゴウさん。」
そう笑いかける姿は、そこらで平凡に暮らしている女と何ら変わりはない。凛としていて、時には鈴を転がすように笑う。
特に、アイツとの思い出の品を差し入れた時がそうだ。遺品であるペアのネックレスが見つかった時、『喧嘩したときはここのスイーツを買って帰るんだ』というアイツの言葉を頼りに買って行ったショートケーキを食べた時。
アイツの欠片を与えた時、この人は本当に良く笑う。
いつもより、少し穏やかな朝だった。
「あれ、珍しい。バクゴウさんはミルクとお砂糖一つずつじゃなかったっけ。」
「……俺じゃねぇよ、」
それはあんたの大事な奴のことだろ。いい加減思い出せよ、お前は一人じゃねぇだろ。二年も経ってんだぞ。あんたを守ったのに、忘れられるなんて浮かばれなくねぇか。
…大体バクゴウさんってなんだよ、そうやって呼んだ試し一度だって無いだろ。
もっと大口開けて豪快に笑う奴だっただろ。今すぐにでもぶつけたい言葉たちを必死に飲み込んだ。
なぁ、俺が好きだった奴は、そんな風に笑う奴じゃねぇよ。
どの言葉が引っかかったのか分からない。久しぶりに発作症状を起こした彼女の背中を撫でながら、手早く主治医に連絡をした。
主治医曰く、時間が解決することもある、というのは本当らしい。見解によると、記憶の方は回復の兆しが見えているとのことだった。薬を服用されて落ち着き、眠っている彼女の髪を撫でる。
回復とは良いことなのか悪いことなのか、それが何を意味するのか、俺にはもう分らなかった。
なぁ、俺はどうすればいい?お前にも、こいつにも隠し続けたこの気持ちを抱えたままで、こんな風に触れていいのか。
お前が居ないからって、俺のエゴで傍に居てもいいのか。こいつはお前のところに行った方が幸せなのか。
「誰とでもいいから、生きてくれよ」
縋るように呟いた言葉は、誰にも届くことなく冷えた空気に溶けた。
夢を見た。私には何故か手足が無くて、口も利けない。だけど目の前には確かに、愛してやまない人がいた。もう会えるはずのない人。分かっていても心がそれを拒否してしまうほど、会いたくて堪らない人。
『君は、一人じゃないから』
彼はそう言って優しく微笑んだ。そして押すんだ、私の背中を。行きたくないのに、でも、行かなきゃいけないって分かった。ばいばい、またね。呟いて振り返ると、光の向こう側にクリーム色の毛がぴょこんと揺れた。
「…目、覚めたか」
「かつき、くん………」
ぼんやりと浮かぶクリーム色の髪の毛に手を伸ばしてみる。そうそう、この毛はこう見えて案外柔らかいんだった。彼と付き合えたのは、勝己くんのお陰だった。
同じ事務所の同期だった二人と、同じく同期入社で事務職をしていた私。紆余曲折あって私たちが付き合ってからも、よく三人で飲みに行ったんだよね。馬鹿やって笑って、楽しかったな。
彼と喧嘩したときは愚痴を聞いてもらったりもした。ウゼェって言いながら付き合ってくれるところも、そんなときは割り勘じゃなくて奢ってくれる所も、心地良かった。
「……え、」
目の前にある三日月形の目が、驚きで見開かれる。じわりと瞳に膜が張っていく様子を眺めていた。あぁ、どうしよう、零れちゃう。
手を伸ばすと、そのまま強く抱き起こされた。がっしりとしたその腕に、彼はヒーローなのだと再認識させられる。
「遅ぇよ……」
「ごめんね、たくさんありがとう、本当に。」
「もう忘れんな。絶対、何があっても。お前は絶対に一人じゃねぇ」
彼の声が震えていて、私も知らないうちに泣いていた。私の存在を確かめるように、その腕に力が籠る。ちゃんとここにいるよ、もう逃げないよ、そう答えるために強く強く抱き締め返した。
こんな事したら、君は怒るかな?きっと、勝己なら安心だなって笑うんじゃないかな。
いつかまた会えるまで、もうちょっと頑張ってみることにするね。
「俺と、一緒に生きてくれよ」
赤くなった目元をお互いに揶揄ったあと、さっき飲めなかった珈琲を淹れた。私はミルクとお砂糖一つずつ、勝己くんはブラックで。私の空白を埋めるように、知らない話を沢山してくれた。
耳心地の良いクラシックに混じって、勝己くんと私の声がリビングに響く。
私は、生きるよ。あなたと、君と。
新しいページを捲った先で、また皆で笑い合えると信じて。