初恋
秋の匂い。
あの曲がり角を曲がれば、ころころと朗らかに笑うあいつの声が、今でも聞こえる気がした。
「…き…ん!かーつーきーくん!」
「あ?」
「夜ご飯、ハンバーグとそぼろ丼どっちがいい?」
「麻婆豆腐」
" それは材料買ってないから無理だよー! "と笑う女からビニール袋を奪うように受け取り、視線とは逆の方向に向かって歩く。
パタパタと俺に追いついた彼女からは、爽やかなグレープフルーツの香りがした。
マンションの郵便受けから、やけに上質な紙でできた白い封筒が覗いている。
差出人を見て、心臓が軋んだ。
あぁ、そうかよ。
お前はあの朝の宣言通り、幸せになりやがったのかよ。
力任せに握った封筒は、ぐしゃりと音を立てて歪んだ。まるで、俺の心みたいに。
折角の機会だ。聞かせてやるよ、しつこいくらい聞いて来てたじゃねぇか。
は?大人しく聞いとけや。お前は今、聞く義務があんだよ。
出会いは、ハタチの時。
初めはただ、ウゼェ奴だと思った。
アホ面と醤油顔…あー、そう、チャージズマとセロファンな。
あいつらに無理矢理連れて行かれた合コンにお前はいた。
ヒーローに疎いらしく、俺らを見て"よくわかんないけどすごいんですね"ってヘラヘラしてやがった。その見るからな作り笑いがウザすぎてキレた。
「君、爆豪くん?だっけ。めちゃくちゃ自己顕示欲高そうだね。」
「あ゛ぁ!?」
「私、ヒーローに興味ないんじゃなくて、好きじゃないんだよね。」
盛り上がる横長のテーブルの隅で、俺とそいつは向かい合う。
周りが出来上がって浮ついた空気を醸し出す頃、彼女は俺に向かって……いや、俺だけに向かってそう言った。
「ヒーローに助けられなかったから、弟が死んだの。」
ハタチになりたてだっつーのに、ワイングラスを傾けていた。
酔いが回って舌足らずなのに、今までで一番はっきりと聞こえた一言だった。
「なーんてね、冗談。」
「全員助けるとは言えねぇ。だけど俺の手が届く範囲で死人は出さねェ。全員救って完全勝利だわ」
「ふは、なにそれ。誰と戦ってんの。」
あ?俺らしくない?知らねぇよ、勝手に口から出たんだわ。
その時、初めて眉間にシワも寄ってないし、作り笑いでもない笑顔を見た。それを見て、なんとなく心地が良いと思ったんだ。
告白は、どちらもしなかった。それでも一緒にいた。
合鍵の交換だってしてたし、お互いの好物も嫌いなものも知っていた。
好きな曲も、好きな映画も、ホラーはいける癖にスプラッタが駄目なことも、お互いのイイ場所も知っていた。知らないことは、ないと思っていた。
「勝己、今日の夜ご飯麻婆豆腐ね!」
「辛ェやつ。」
「了解しましたっ」
辛いの食えねぇのに、俺に合わせて唐辛子マシマシで作っていた。別に自分の分は辛くないやつにすればいいのに、"どうせなら同じの食べたいじゃん?"と辛さで涙目になりながら笑ってたよな。
あれは、今思い出してもただの阿呆だろ。
22の、もうすぐ夏が終わる頃。すっかり日常化した彼女の隣で、普通の日を過ごしていた。
当たり前だと思っていた。
これがずっと続いて、そのうち結婚して、こいつとの子供ができるんだと勝手に思っていた。
「あ!今年も金木犀の季節がきたね。いい香り。」
「あー…この甘ェやつか。」
「そうそう。」
カサカサとスーパーの袋が擦れる音と、まだ辛うじて残るセミの声。そこに芳る金木犀の香りはアンバランスに感じた。
「金木犀の花言葉って『初恋』なんだって。
この良い香りするのは一瞬なのに、一度嗅いだらいつまでも記憶に残り続けるから。」
" へぇ、お前みたいだな "なんて思った。
この時、思ったことを素直に伝えていたら、今お前の隣にいるのは俺だったのかよ。
「あっそ。」
「うわあ、全然興味無いじゃんか!」
この時、気づいていた違和感に手を差し伸べていたら、未来は変わってたのかよ。
この日も、作ってくれた手料理を食べて風呂に入り、そろそろクイーンにでも買い替えたいと思っていたセミダブルベッドの中で身体を重ねた。
いつもと同じ、同じだった。
「…ん」
まだ蝉が生き残っているとはいえ、朝晩は冷える。隙間風が腕を通り、目を覚ました。
彼女は隣にいなかった。
「…なんかあったんか」
「あれ、起きちゃったの?」
彼女はベランダにいて、もうすぐ昇るであろう朝日を見ながら缶ビールを手にしていた。朝から飲んでんのかよ。
「私たちって、なんだったのかな。」
「は?」
「恋人、だったのかな。」
いつも『私のこと好き?』と聞かれていた。『どこが好き?』とも聞かれていた。
鬱陶しいと思ったことは無いが、それにちゃんと答えられたことも一度だってなかった。
「知らないことが、多すぎたね。」
「
「ねぇ、幸せになってね。」
「私も絶対、ヒーローよりも年収ある男捕まえて幸せになるからさ。」
初めて、泣いてるところを見た。約二年間一緒にいて、初めて。
朝日に照らされたその透明は、一緒に植えたベランダの植物に潤いを与えるように落ちていった。お前の言う通りだった。
「やだな、勝己まで泣かないでよ。」
知らないことばっかりだ。
お前が今、どんなことを思って笑っているのかわからない。何も、わからない。
その身体を抱き締めることも、もう空であろう缶ビールを握るその手を掴むことも、できなかった。
「じゃあ、キミもせいぜい幸せになりたまえ!」
お前はいつだって、甘い花の香りがした。
「要するに、何が言いたいわけ?」
いつもお前と通った道を歩けないほど、秋が来てあの甘い香りがするのが怖いほど、それほどお前が消えなくて。
ずっと、染み付いたままで。
「初恋は、叶わないんだよ。」
「…わかっとるわ。」
「じゃ、そろそろ切るね」
「好きだったんだよ、お前が」
「……遅いよ。ばーか。」
スマホを放り、寝相の悪い彼女に布団を掛け直す。
ふわりと、金木犀の香りがした。
今年の秋は、置き去りの想いちゃんと連れて、秋を迎える。