マイナス15cm
ザワザワザワ…。
突然教室が騒がしくなり、つられるように顔を上げた轟の目に飛び込んできたのは、想像もしていなかったものだった。
「なまえちゃん、髪の毛切ってるー!」
「ロングもいいけどショートもとっても似合ってるわね。」
胸下まであった揺れる髪の毛は、肩につくかつかないかの長さで切り揃えられている。色などは変わらないものの、大幅に雰囲気が変わった彼女の姿に釘付けになった。
轟は、短いのも似合うなと心の中で女子生徒たちの声に同意した。
「…いや、それにしてもショート似合ってんなぁ〜」
「しっかし、別れたから?失恋してショートにするとか、安直なこと考えるな、あいつも」
「バッカ!聞こえたらどうすんだよ!」
同じように彼女に見惚れていると、トゲのある会話をするクラスメイトの声が耳に入って来た。そういえば、失恋をきっかけに髪を切る女性は多いという話を聞いたことがある。
姉である冬美にも、「女の子にとって髪の毛は特別大事なものなんだよ」と幼い頃に聞かされた記憶があった。
自分のせいであいつは大事に伸ばしていた髪を切ったのか。轟の頭は、そんな罪悪感を含んだ言葉が浮かんでは消え、徐々にそれに蝕まれていった。
ふと、此方を見た彼女と視線が絡まる。
どくん、と胸が鳴った。失ったはずの彼女に対する熱が、急に蘇る感覚。『いや、気のせいだろう』と首を振り、轟は大して興味もない現文の教科書へ向き合った。
はじまりは、俺からの一言だった。恋に落ちたきっかけというものは分からないけど、『この気持ちはなんだ』と友人の緑谷に相談したところ、『轟くんはみょうじさんのことが好きなんじゃないかな?』と回答を貰ったことがが決め手となった。
恋愛なんてしたこともない、ましてや姉や母親以外の女性との関わりがなかった俺にとって、それは全て手探りだった。答えのない闇に葬られているような感覚。分からない、でも、心がそれを辞めようとしない。こんな気持ちになったのは初めてだった。
「…俺、お前のこと好きみてェだ」
突拍子もない俺の一言を、なまえは照れたように笑いながら受け入れてくれた。
それからは毎日が輝いて見えて、全部が特別だった。
だけど、それを終わらせたのも俺の一言だ。
「お前は、俺のことが好きか?」
こんなことを言ったら女々しいだろうか、重いだろうか。嫌われてしまうだろうか。そんな考えが無かったわけではなかった。だけど、他の上手い言葉を探すことも、彼女の気持ちを汲み取ることも、その時の俺にはできなかった。それだけ、余裕がなかったのだ。
発した一言に、目の前の彼女は眼を見開き、そして悲しそうに表情を歪めた。
「好きだよ」
その言葉が痛々しく、悲痛な叫びのように聞こえた。
あぁ、こいつは、無理をしている。
そこからは、あまり覚えていない。切羽詰まったように出した声は想像以上にデカかったし、俺を見る好きな奴の目は怯えていた。
「こんなこと、このタイミングで言うのも狡いかもしんねぇけどさ…俺なら泣かせたりしないよ。」
「…え?」
その日の自主練後、彼女とクラスメイトの一人が、そんな会話をしているところにたまたま居合わせてしまった。傍から見ても、一歩違う空気を纏っていることが分かる。
此処に居てはいけないと本能的に察するのに、身体が動かなかった。怒りにも似た感情を抱いている自分が居るのだ。安直な言葉で表せば、ムカつく。
「轟より、幸せにできるよ」
やめろそんなことないって、俺だって
あれ、俺、なんでこんなこと、願ってるんだ。
「…そうかもしれないね。」
「じゃあ、」
「でも、わたし、まだ轟くんのことが好きなんだよね。未練タラタラなの。」
彼女の表情は見えなかったのに、何故か笑っている気がした。その柔らかい声で、小さい口で、俺の名前を紡いでいる。その事実に、高揚する気持ちを抑えられずにいた。
「俺も、好きだ。なまえ。」
「……轟くん?」
気付けば声を発していた。俺はつくづく、彼女のことになると一ミリも余裕というものがないようだった。それを思い知らされた轟は、少し気恥ずかしそうに頭を掻く。
「…お前が他の奴の所に行くのは、嫌だ」
「っな、勝手な……」
「わりぃ、でも、譲れねぇ」
「轟くんは、勉強はできるのにおバカさんだね」
いつの前にか目の前に立った彼女は、轟の少し赤らんだ頬を撫でた。その目は真剣そのもので、ビー玉のように丸い瞳に吸い込まれてしまいそうになる。
「勝手に決めつけて、傷ついて。ちゃんと話聞いてもらえなきゃ、伝えたいことも伝わらないんだよ。
…私もまあ、臆病だったけど。轟くんはもっと”弱虫"だね。」
「…あぁ」
「それでも、そんな轟くんが、すき」
俺が想像していた何倍も彼女は強くて、まっすぐで、常に思考を巡らせていた。それを分かっていなかったのは自分自身で、自分で自分を苦しめていただけだった。大切だからこそ、不安で堪らなかった。言葉にするとちっぽけで、乾いた笑いが零れる。俺がひとりで、勝手にグラグラと揺れる足場に身を置いているだけだった。こいつはこんなにも、しっかり立っていたのに。
「もう一度、俺の隣に居てくれねぇか」
「うんっ」
大きく頷いたなまえの髪がふわりと跳ねた。あの時は肩を滑り落ちていた髪が、今度はぴょんぴょんと跳ねる。それが新鮮で、それでいて、心を擽るのだ。
今度は柔らかく、丁寧に、隣に並んで歩こう。
全て受け入れて、理解して、分からないことは言葉にしよう。
そんな決意を込めて短くなったその髪に触れると、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。