途轍もない息苦しさを感じて目覚めると、寝汗をかいた額にべったりと前髪がへばりついていた。自分の体温が異常に高いことに気が付く。だからあの夢を見たのかと気付くと、頭が殴られたように痛んだ。

夢の中で俺に冷たい目を向けていたのは、人生の中で一番長く付き合った相手だった。高校を卒業して、アドラーズに入ってもがいていた時に俺を支えてくれたのがなまえだった。中学の頃に同じ中学で男子バレー部のマネージャーをしていた彼女は、俺がプロになったと知ると連絡を寄越してきた。高校三年間はほぼ連絡をとっていなかったし、通知を見て誰だこいつ?と思ったのが正直なところだった。

『見通しは立ってるの?』

『まぁ』

『ちゃんと栄養取れるご飯食べてるの?』

何故か気にかけてくれていた。なんでそんなに?と思ったけど、嫌だとか鬱陶しいとかいう感情は特段浮かばなかった。結局、それが愛とか恋とかそういう類のものだと知ったのは、それから半年ほど経った頃だったのだが。

「私、ずっと影山のこと好きだったんだよね」

「は?」

彼女の行きつけだという食屋で飯を食っていた時だった。そういえばさぁ、と言う緩い会話の延長線上で、なまえは俺に告白をした。何もピンと来なかった。マジか、嘘だろ?という、今考えれば最低な反応しか出てこなかったと思う。

「みんなのことを支えたい、みんなと一緒に全国行きたいと思ってたけど、その中でも影山は特別だったんだよね。…今も。」

「じゃあ、俺と付き合うか?」

気づいたらそんな言葉が口から出ていた。好きだとか、付き合うとか、彼女とか。そのどれもが俺に不釣り合いな単語に聞こえて避けていたものを、自分から掴み取りに行った。なぜかこいつだけは離したくないと直感的に思ったのだ。
なまえは俺の言葉を聞いてひどく驚いた表情をした後、泣きそうに顔を歪めた。なんで泣くんだと手を差し伸べると、瞳がゆらりと揺れて涙が溢れる。わからない、と思った。何もわからないのに、とてつもなく愛おしい。この胸が温かくなる感覚こそが、愛なのかもしれないと漠然と思った。


引っ越しを考えていたという彼女が部屋に転がり込んできてからは、多分上手くいっていた。家事ができない俺に変わり、献身的にサポートしてくれた。俺が練習に明け暮れても、怒ることなく今日あった出来事を話合える。知識のある彼女は、時には医療的な面でアドバイスをくれたりした。大学でもそういうことを勉強しているんだとよく話してくれていた。

「私たち、お互いの夢を叶えられると思うんだよね」

「…あぁ、」

「飛雄なら、絶対に大丈夫だよ」

なまえがそうやって笑うと、何故か心が穏やかになる。サーブトスの調子がめちゃくちゃ良くて、視界がクリアになる時と同じような感覚だ。
…いや、それともまた違う、毛羽立っていたものがスーッと真っ直ぐになるような感じ。
俺はその言葉を聞いて、毎度安心感を得ていた。

正直、プロになってすぐの俺は、彼女のおかげでマトモな生活を送れていたと思う。ついていけないほどではないが、高校の時と比べたら格段にハードになった練習。もちろんバレーボールは楽しかったけど、楽しい時だけじゃないのも事実だった。
確実にレベルが高い目の前に立ちはだかる壁。思うように動かない身体。食うもんも寝る時間も棲む部屋も、その全てがバレーボールに直結する。生きていくための【バレーボール】。その違いをまざまざと感じる日々だった。


そんな生活を続けて早一年が経った。

なまえは大学に通いながらスポーツショップでバイトを続けている。ほぼ同棲のような生活は相変わらず続けていて、家事全般はほとんどなまえがやってくれていた。嫌な顔一つせず、飛雄は練習頑張ってるから!と笑う。バイトで家を開けるときは飯を作り置きしてくれていた。なまえの飯は美味くて、よくチームメイトにも羨ましがられた。
そのお陰もあり、俺は公式戦に安定して出してもらえるようになった。最近ではオリンピックへの招集も見込めるだろうとも言われている。全ては順調だと思っていた。当たり前で、そんな当たり前がこれから先も続くものだと思っていたんだ。


「…飛雄、ちょっとだけ話、いい?」

「いいけど、明日も早いから手短に頼む」

「あのね、…あの、」

そろそろ眠ろうかと準備を始めた俺を、なまえは神妙な面持ちで呼び止めた。なんとなく、普段と纏っている空気の違いを感じる。ふわりとした空気がどこにもなくて、嫌な予感がした。
彼女の丸い目が影山を捉えた。そういえば、こうやってなまえの目を真っ直ぐ見たのはいつぶりだっただろうか。


「飛雄は、私のこと好き?」

「…何言ってんだ」

「私最近、苦しくてさ。飛雄のこと一番に応援してるはずなのに、心からバレーボールをしている飛雄を愛せなくて苦しい」

「何言ってんだ、お前」

なまえは、俺のことが好きだと言った。バレーボールをする俺を応援したいと、一番そばで見ていたいと言った。だから俺はそれに応えたし、これから先も成果で応えていくつもりだ。苦しいってなんだ、愛せないってなんだ。何が言いたいんだよ。

お前は俺に、バレーを辞めろって言うのか?


「っもう無理……!私、バレーボールまで嫌いになりたくなかった」

はぁ、と息を吐いたところで、目の前にいたなまえがボロボロと涙を零していることに気が付いた。俺は今、何を言った…?息が上がる、乱れた呼吸を必死に整えた。頭にぼうっともやが掛かったように真っ白で、なんの言葉も浮かんで来ない。
荒々しく音を立てて立ち上がったなまえは、暫くして家から出ていった。最後に一度だけこちらを振り返ったなまえの目は真っ赤に腫れ上がっていた。俺はまだ、椅子の上から動けない。

しんと鎮まり返った部屋は、とてつもなく居心地が悪い。なまえがここにいた痕跡は、何一つ無くなっていた。服も、いつもつけていた香水も、勉強していた専攻の参考書も。まるで最初からなかったかのように綺麗さっぱり無くなっていた。
どうしてこうなってしまった?俺は、何をしたんだ。

「影山は、彼女の気持ちを考えたことはあったの?」

「…気持ち、」

「彼女は影山のマネージャーでもサポーターでもなくて、愛だけを無条件にくれた【恋人】でしょ」

咄嗟に連絡した同級生は、そんなことを言っていた。俺はなまえの気持ちを考えたことがあったか?いや、きっとなかった。思ってはいたけど、それが彼女に伝わっていた可能性はゼロに近いだろう。
無条件に与えられていた優しさを、当たり前だと思っていた。

「最低だな、俺。」

気づいた時には遅かった。掛けた通話は繋がらない。彼女に繋げてくれと声を掛けられるような友達もいない。どこでバイトをしているのか、店舗名もわからない。何時にどこに行ったら会えるのかも検討がつかない。彼女のことを何も、知らない。
なまえは俺に全てを与えてくれていたのに、俺はなまえのことを何も知らないのだ。完全なる一方通行。そうか、こういうことか。

今でもずっと、胸に引っかかっている。彼女の冷たい目が、鮮明に思い出される。
もしあの時あぁしていたら、こう言っていたら、今ある生活は変わっていたのだろうか。まだなまえと一緒に居たのだろうか。彼女が傍に居て、飛雄なら大丈夫だと朗らかに微笑む世界があったのだろうか。

熱に魘された身体を起こすと、ぐらりと視界が揺れた。頭と身体が分離してしまったかのように思うように動かない。こんな時、あいつがいればと今でも思っている自分に気がついて嫌になった。

今更何を思っても遅いとは分かっていても、想わずにはいられない世界がある。
もしもその世界があるのなら、その時は、一番にこの言葉を伝えると思う。

「ありがとう」

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