0.5日目
俺がなまえに恋をしたのは、今からちょうど半年くらい前。
その日は、いつもと違う管轄の区画でパトロールをしていた。親父に頼まれたからだ。
サイドキック数人と共にやってきたそこはオフィス街で、平日の今日はサラリーマンなどで賑わっている。普段、住宅が多くあるようなエリアを担当している俺は、なんだか新鮮な気持ちを抱えたまま周囲に注意を払っていた。
ここで見つけたのが、彼女だ。
「あの、今この方が先に並んでましたよね?」
ふと耳に飛び込んできた女性の声を辿って視線を巡らす。そこにいたのは小柄な体格の女性と、それに反してガタイの良い男性だった。両者ともに表情は強ばっていて、良い状況ではないことが伺える。
「ア?なんだテメェ」
「だから、皆ちゃんと順番守って並んでるんだから、貴方も並んでくださいと言っているんです」
スッパリと言い切った女性は、とても凛々しい表情をしていた。もっと、よく見たい。
一歩一歩そこに近づいていくと、会話の内容がより鮮明に聞こえてくる。どうやら人気店であるこの店には、ランチ時には長い列ができるらしい。皆が例に習って列を作る中、それを乱してきたのがあの男。そしてその男に対し、勇敢に立ち向かって行ったのが目の前の女性ということだろう。
俺に気づいた複数人が声を上げると、睨み合っていた当事者二人がこちらを向くのがわかった。
「お前…」
「おじさん、ルールってのは守るためにあるってことは知ってるか?」
「…なっ」
「ルールを守る。人間の"当たり前"だろ?おっさんはそんなこともできないってことか?」
カッと目の前の男が赤く染まり、女性はぽかんとした表情で俺を見上げる。その店の周りにいた客たちからはまばらに拍手が起こり、女性のきゃーという声が聞こえてきた。プロヒーローとして活動し始めてもうしばらく経ったし、この反応にも慣れてきた。しかし今回は、この女性の反応が気になって仕方がない。
列を乱した中年男性が逃げるように走り去った後、彼女はすとんとしゃがみ込む。
握りしめたその手が震えていた。
「…怖かった」
「遅くなっちまってわりぃ」
「いえ。助けてくれて、ありがとうございました」
しゃがみ込んだまま顔をあげた彼女は、安心したようにふわりと頬を緩ませた。その表情からしばらく目が離せないでいると、今度は不思議そうに俺を見る。その先の言葉を待たれているようで気恥ずかしくなり、首を左右に振った。
「…さすが、ヒーローですね。全然動じてなかった」
「まあ、な」
そうだ、きっと俺は今、この瞬間の方が何倍も動揺している。ふと、胸元に会社員の証である名札がついていることに気がついた。
みょうじ なまえ。
それが、一目惚れした女性の名前だった。
「それじゃあ。頑張ってくださいね、ヒーロー。」
身を翻した彼女は、別の店へ向かって歩き出した。この店で飯を食べるつもりではなかったのか。それなのに、腰を抜かしてしまうほど勇気を振り絞って声を上げたのか。
それを知った俺は、より彼女のことを知りたくなった。女性…いや、他人に対してこのような感情を抱くのは初めてだった。もっと、彼女のことを知りたい。関係を持ちたい。
また会えるだろうか。ピンと伸びた彼女の背中を目で追いかけながら、叶うかもわからない奇跡を祈った。
◇◇◇
それから2ヶ月後、また親父からの指示であの街へ出向く機会があった。昼時、もしかしたらまた彼女に会えるかもしれない。そんな期待を持って街を歩くと、自分の心が浮かれていることに気づく。いつもよりも忙しなく辺りを見回している自分がいた。
しかし、昼を過ぎても、1日を終えても彼女を目にすることはなかった。まあ、そんな運よく会えるわけがないか。
この街で、どれだけの人が生活しているというのだ。
「今日は仕方ないか」
そうは思っても、次の日もその次の日も。そしてまた1ヶ月後に出向いた時も、彼女を見つけることはできなかった。みょうじ なまえ。当たり前だが、名前だけ知っていたとしてもできることは何もない。雄英時代の友人と話す機会があった際に一度だけ言われたことがあった。「それは、難しいかもしれないね」と。簡単に諦めるということをしない人たちがそんなことを口にするほど、難しいことであると悟った。
「もう、会えねぇのかな」
「…轟くんは、本当にその人のことが好きなんだね」
「あぁ、多分」
彼女の声、表情、仕草を思い出すと胸が締め付けられる。彼女はどんな生活をしているのか、恋人はいるのか、年齢は、誕生日は、好きなものは?その全てを、俺は知らない。それでも、彼女が好きだと素直に言えてしまうのが不思議だった。何も知らない彼女と、これからを共に過ごしたいと思うのだ。
そうして悶々とした日々を送っていた俺が、やっとの想いで彼女との再会を果たしたのがあの日だった。
ファンだと名乗る女性に声をかけられると、瞬く間に女性たちに囲まれる。それに応えながら周囲を見回すと、遠くに会いたくて堪らなかった彼女の姿を見つけた。
前よりも長く伸びた髪が、サラサラと揺れている。纏う服も軽めのものから冬服に変わり、それに伴って雰囲気も少しだけ変わっている気がした。
それでも、わかったのだ。あれはなまえだと。
人混みを抜けて、その背中に声を掛ける。声に反応してくるりと振り返った彼女は、俺の存在を認識してきょとんと不思議そうに首を傾けた。その愛しくてたまらない表情を、これから先も俺に向けて貰いたくて。
「俺と、付き合ってください。」
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