6日目
昨日の自分が嘘のように、すっきりと目覚めた。カーテンを開けてベッドを整える。私の部屋なのに、私の部屋ではないようだ。今日、ここに彼がやってくる。恥ずかしくないようにしなければと、部屋の隅々まで見渡した。
髪の毛一つも落ちていないように、念入りに掃除機を掛ける。
普段サボってしまいがちな水拭き掃除も、クイッ◯ルワ◯パーを使って行った。水回りの掃除も忘れずに。
さて、ご飯はなにを作ろうかと一息ついた頃には、もうお昼過ぎだった。
『仕事、頑張れそうだ。』
そんなメッセージに頬を緩ませてしまった私は、もう彼に絆されてしまっている。さっさと認めてしまいたいようで、認めたくない。踏み出してしまいたいようで、ずっとこのままで居た方が良いかもしれないという気持ちも残っている。
まだ、拭い切れた訳ではないのだ。
もし遊ばれているだけだったら?
相手には全くそんな気はなかったら?
揶揄われているだけだったら?
私の、普通の生活は?
そこまで考えて、【普通】とは何なのか、わからなくなった。もしかしたら彼も彼なりの【普通】を求めているのかもしれない。
西日が差し始めた頃にスーパーへ買い物へ向かい、夜ご飯の支度を始めた。悩んだけれど蕎麦を打つことはできないので、和食で統一することにした。長く一人暮らしをしていたせいで、料理は得意とは言えないがまぁできる方である。
喜んでくれたらいいな、と考えている自分に気がついて、また一つ苦笑を浮かべた。
◇◇◇
家のインターフォンが鳴ったのは、夜の8時すぎ。これでも早い方だと言っていたから、本当にヒーローという職業は一般人には計り知れないほど大変なんだろう。
「お邪魔します」
「どうぞ」
鍵を開けて招き入れると、焦凍は一応と買っておいたお客様用の可愛らしいスリッパに足を入れた。ゴツめの男の人と、白いリボンが不釣り合いで笑いそうになってしまう。チグハグなその姿が、私の心も浮つかせた。
「先にご飯でいい、かな?」
「食べたい。ありがとな」
自分の家なのに自分の家じゃないみたいで、どうも落ち着かない。
それに、この会話はなんだか…。
「新婚みたい、だな」
食卓を囲んだ焦凍は、顔を上げてふわりと微笑んだ。なにそれ、なにその顔、ズルすぎる。
高鳴る心臓を必死に沈めながら、あまり味のしないご飯を掻き込んだ。焦凍は食べながら何度も「旨い」と言ってくれたのでほっと胸を撫で下ろす。横着しないでしっかりレシピを調べて良かった。
夕食を食べ、二人掛け用のソファで並んでテレビを見る。二人掛け用と言っても一人暮らし用のそれは大人二人が座るには狭くて、常に肩と肩が触れ合っていた。
焦凍の体温がそこから伝わってきて、意識せざるを得ない。
対して興味もないお笑い番組を興味あるふりして、テレビの画面をただ見つめていた。
「…なぁ、」
「ん?」
だらりと投げ出されていた私の手を、焦凍の手が包んだ。暖かくて大きなその手は、するりと形を変えて指に絡みつく。きゅ、と握られては、必死に冷静を装いながら左隣を見た。
「……なんでも、」
「いつも、そう」
あと一歩、踏み出してくれればいいのに。そうしたら私だって、踏ん切りがつくのに。
それでもこの人は、『なんでもない』というたった一言で、全て無かったことにしてしまうのだ。無かったことになんて、しないでよ。
「なんでもないなんて、言わないで」
言ってしまった、と思った。
まだ間に合う、私もなんでもないよと笑えば、全て無かったことにできる。しかし、それをする前に私は焦凍に抱き締められた。あぁヒーローなんだと改めて思わされるような強い力で私を抱き締めたその腕は、少しだけ震えていた気がする。
どのくらい、そのままだっただろうか。
思考も行動も全て支配されてしまったかのように動けなくて、言葉も出てこなくて、長い間二人でそうしていた気がする。
「……悪りぃ、」
「なんで、謝るの」
「大事に、してぇんだ」
そっと私の身体を離した焦凍は、そう困ったように言った。
大事にしたいって、なんだ。23.4歳にもなって、女の家でここまで来て、そういうことにならないなんて、相当魅力がないのではないか。やっぱり恋とか愛とかじゃ無くて、何か他の目的があるんじゃないか。
勝手に頭が下を向いたところで、彼の指先が顎に触れる。そのまま救うように持ち上げられたかと思うと、唇が重なった。
突然の出来事に、私の顔は相当間抜けだったことだろう。
流れるように熱い舌先が唇をなぞって割り込んでくる。当たり前のようにそれを絡め取ると、味わうように吸い上げた。ビリビリと頭も指先も痺れて、なにがなんだかわからなくなる。
考えることなんて放棄して、全部彼に預けてしまいたいと思う。それをする勇気を、私に頂戴よ。
「……悪りぃ、」
それでも焦凍が一歩を踏み出すことはなく、先ほどと同じトーンで同じ台詞を放って私から離れた。
「今日は帰るな」
困ったように笑った焦凍は、私の頭を撫でて立ち上がる。ねぇ、本当に帰っちゃうの?
そう見上げた私の気持ちが伝わるはずもなく、響く足音は遠ざかっていく。帰ってしまうのなら、どうしてキスなんてしたの。
どうして私を撫でたその手つきはとびきり優しくて、どうして私をそんなに愛しげな目で見るの?
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