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滴に溶ける

『ねぇ、どうして人の姿でいるようになったの?』


決して大きい訳では無いが、ハッキリとよく通る声で女主は言った。その問い掛けの相手は…まぁ、間違いなくこのオレだろう。


「何だよ、急に」

『特に理由はないけど…敢えて言うなら、何となく?』

「…予想はしてたが、やっぱりそれか」


ついさっきまで本を読むのに夢中でオレには目もくれていなかった癖に。だがコイツのこういう唐突なところは今に始まったことじゃない。アイスを食べていたと思えば急におでんが食べたいと言い出したり、何の脈絡も無く鳥ポケモンになりたいなどと言い出したり…とにかくガキの頃から思ったことをそのまま口にするヤツだった。おまけに何故そう思ったかと聞かれると、大体は“何となく”の一言で片付けてしまう。だがまぁ、付き合いも長くなった今となっては然程気にならないが。

それに、オレとしてはコイツのこの性格は嫌いじゃない。下手に取り繕うこともせず、ただ自分の純粋な感情から発するコイツの言葉は真っ直ぐで心地良い。…そういえばコイツは嘘やおべっかが吐けない癖に、誰かを不用意に傷付けたり悪意を持って話しているところを今まで一度も見たことがないな。そういった分別はあるのか…いや、というよりも他人を貶す心を持ち合わせていないと言った方が近いかもしれない。変わり者だと影で囁かれるときも昔はあったようだが、いつもニコニコ楽しそうに笑って、自由に生きている姿はむしろ…。


(…そうだ。お前のことが特別だから…オレは、)


知らずに握り締めていた右手を胸の位置まで持っていき、指を1本ずつ解すようにゆっくりと開いていく。


(人間の姿になれば、鋭い爪も牙も無い。だからお前を傷付けずに済むんだ)


時間に換算すれば随分昔のことなのだろうが、今もなおオレの心に深く刺さるあの日の出来事。目を閉じればいつだって鮮明に思い出す、赤く染まった光景。


…オレがまだワニノコだった時、女主に噛み付いて怪我をさせてしまったことがある。オレも女主もただの子供で、庭に置いたビニールプールで無邪気に水遊びをしていた。だがコイツが楽しそうに手足を動かし水飛沫を上げる度、自分では抗えない本能が大いに刺激されていったのだ。

ワニノコという種族に刻まれた、動くものには見境なく噛み付いてしまう習性はそれまでにも幾度かオレを苦しめていた。自分では決して牙を立てたいなどと思っていないのに、その意思とは関係なく暴れてしまう本能。おまけにその時はオレにとって最も心地良い環境といえる水の中にいたこともあってか、普段よりも理性が利かなくなってしまっていた。

オレ達が遊んでいる様子を見守っていた女主の母親が上げた悲鳴で我に返った時、まず目に入ったのは赤く濁ってしまった水だった。ジワジワと色を滲ませていく水からは僅かに鉄のニオイがする。より赤色が濃い箇所に視線を向けると、そこには母親にタオルで腕を押さえられている女主がいた。

タオルにも滲んでしまっているアレが、血なのだと理解した瞬間。オレの牙からも同じ色の滴がポタリと落ちた。丸い滴が水に溶けてその形を崩していく。それを見た途端に、衝撃で頭がぐらりと揺れた。白くて細い、柔らかな腕に牙を突き立てた生々しい感覚を思い出し、頬を涙が伝う。

すると女主がそっとオレに手を伸ばした。びくりと震えたオレを慰めるように、小さな指で涙を拭う。オレが恐る恐る顔を上げると、女主はいつもと変わらない満面の笑みを浮かべていた。


『だいじょうぶだよ!だから、泣かないで?』


皮膚を突き破り血が流れたのだから、痛くないわけがない。なのに女主は全くそんな素振りを見せず、ニッコリと笑ってオレの頭を撫でて言った。


(…どうして、)


どうしてお前は笑っていられるのだろう。オレは、お前を傷付けてしまったのに。母親に家の中へと連れられて行く後ろ姿をぼんやりと見送りながらそう思った。

それから病院に行き医者に診てもらったらしいが、幸いにも流血した割には傷は浅く、痕になることはないだろうとのことだった。…でも、そんなことオレにとって何の救いにもなりはしない。女主を傷付け、怪我を負わせた。それが事実だ。


(お前はオレにとって守るべき存在なのに…大切、なのに)


もう二度とこんなことがあってはならない。あの笑顔を守る為に、オレ自身が変わらなくてはダメだ。…それに、あの時お前は笑ってくれたけど…本当は心の中でオレに怯えていたかもしれない。そんなのは嫌だ。何よりオレは、お前に嫌われたくない。

ならどうすればいいと考えた時、共に暮らしている他のポケモンがしていた擬人化を思い出した。人間の姿になれれば…もしかしたら、女主を傷付ける牙や爪が無くなるかも、と。だが擬人化はポケモンとして心身共に成熟していないと出来ないものだと聞いたことがあった。現にいくら人間の姿になりたいと念じても当時のオレには叶わなかったから、それは本当のことなのだと思う。

だからオレはがむしゃらに強くなった。野生のポケモンに片っ端から挑んだり、女主と一緒にトレーナーにバトルを申し込んだりした。そしてアリゲイツに進化した頃…オレは擬人化が出来るようになったのだ。望んでいた通り、人間の姿となったオレには牙も爪も無くなっていた。女主は驚いていたけれど、オレは嬉しくて堪らなかった。


(あぁ、これでもうお前を傷付けずに済む。痛い思いもさせない。だから、どうかオレを嫌わないでくれ)



…なんて、さすがに恥ずかしくて口には出さなかったが。でもこれが問い掛けの答えだ。オレがオーダイルになった今でもバトルの時以外ずっと擬人化し続けている理由は、単純にお前を傷付けたくないから…嫌われたく、ないから。こんなことを言ったら女々しいと引かれてしまうだろうか。


「…オレ、は…」

『やっぱりさっきの質問は無し!』

「ぅわっ!?」


何と答えるのがベストが考えあぐねていると、突然女主が抱き着いて…いや、突進してきたってのが正しいか?ともかく、全身でオレにぶつかってきてそのままギュッと腕を回してきた。一体何なんだ…おまけに質問は無しって、どういう…。


『あのね、私にとってそれは大した問題じゃないって気付いたの』

「は…?」


大した問題じゃないって…意味が分からない。始めに聞いてきたのはお前だろう。それともアレか。お前のことだから、“何となく”そう思ったからもういいやとか、そんな理由で自己解決したんじゃないだろうな。

そう思ってオレにしがみついている女主を見下ろすと、ちょうど同じタイミングで女主も顔を上げたからバッチリと目が合ってしまった。そしてニッコリ笑ったかと思えば、背中に回していた腕をほどいてオレの頬に両手を添える。不意打ちのその行動に、柄にもなくオレの胸が激しく脈打った。


『だってどんな姿でいようとあなたはあなただもの!勿論、ワニノコからオーダイルまで進化して顔付きは随分変わっちゃったけど…でも中身は全然変わっていないし』

「何だそれ、オレが全く成長してないってことかよ」

『違う違う!昔も今も優しいってこと!』

「っ、」


頬に添えていた両手で、今度はオレの手を優しく包み込む。張り詰めていたものが柔らかくほぐされていくような、そんな暖かさだ。…変わっていないのは、お前の方だよ。優しいのも、お前の方なのに。


『こうして擬人化してる時に聞ける、あなたの低くて優しい声が好き。原型の時にある牙や爪も、オーダイルを形どるものだから好き!』

「―――…っ!!」


今…オレの牙も好きだって…言ったのか?あの日、お前を傷付けたものなのに…。


『擬人化しててもしてなくても、オーダイルが好きだよ。いつも私を守ってくれて、ありがとう!』

「…っ何だよ、それ…」


そこの理由は“何となく”じゃないのかよ、と突っ込んでやろうと思ったのに。気付けばオレは女主を思い切り抱き締めていた。女主は苦しいよ、ともがいているが離してやれそうにはない。今離してしまったら、情けなくも涙を浮かべているこの顔を見られてしまうだろうから。

…本当に、真っ直ぐに言葉を伝えるヤツだ。擬人化しててもしてなくてもなんて、そんな身も蓋もないこと…散々落ち込んで悩んでいたオレに言うのかよ。お前に嫌われたくないって怖がっていたオレがバカみたいじゃないか。


(…でも、それがお前なんだ。信じられないくらい純粋で、優しくて…眩しい女だ)


全身で女主の温もりを感じ、抱き締める腕に力を込める。その時オレの頬を涙が伝った。

それはあの日流した涙とは全く違う。…まるで女主のように、暖かい涙だった。


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