小説 | ナノ
スマルトハイド

別に理由なんてなかった。雨が降っていないから。昼寝のせいで、夜に寝付けなくなったから。波の音が聴こえてきたから。
ありふれた、どこにでも転がっていそうな理由ばかり散らかして、女主は防波堤へと足を運ぶ。小さな港町の、人気のない防波堤。コンクリートの消波ブロックが、打ち寄せる波を砕いては、飛沫に変えていた。

夏の終わりの海風は、蒸し暑い空気をさらりと掻き交ぜ、潮の香りを置いて行った。
もっと水面に近付きたくて、波の音が聞きたくて、消波ブロックの上を渡り歩く。四面体を抉ったようなそれは、いくつもいくつも積み重なって、不規則に頭をつきだしていた。昼間は鳥ポケモンが羽を休めていることもあるが、今は人っ子ひとりいない。

サンダルなのをいいことに、ブロックの上に腰掛け、足先をそっと水面に差し入れる。ひとつ息を吐いて肩を落とし、だらりと首の力を抜いて空を見上げた。

町の明かりがほとんど届かないこの場所からは、数え切れないほどの星が見える。互いの顔を知らない者はいないくらい小さな町だというのに、この場所だけは、不思議と人が少なかった。民家もないし、船着き場がこことはまた別の場所に設けてあるからかもしれない。

人がいる方が珍しいようなこの場所では、瞳に映りきらないほどたくさんの星が空を覆っている。何とはなしにぼんやりとそれを眺めて、帰って、寝る。毎日とはいかないまでも、彼女は頻繁にそうやってこの場所を訪れていた。


悩みがあるわけでもなし、家に居場所がないわけでもなし。考え事もせず、長時間空を見上げ続けるのも疲れる。
もう帰ろうかと女主が腰を上げたとき、水面を何か白いものがゆっくりと横切った。よくよく目を凝らしてみると、病的なまでに青白い、人間の、手だった。浮いている。
悲鳴すら出ないほどの驚きに噎せ込みそうになりながら、指先、手の甲、手首、と視線をずらしていく。だめ、だめ、これ以上は見ちゃだめ。そう思っていても、テレビ中継を見ているかのように、自分の意思とは違う方向へと目線は動いていく。

白磁のように白い頬と、薄い唇。そこまで見て、腰が抜けた。お尻に伝わる鈍い衝撃でようやく金縛りが解け、ごくりと彼女は生唾を呑む。知らない、人だ。黒い波の間を、たゆたっている。服を着たままのようだが、暗くてよく見えない。

波が打ち寄せられるたびに、その人の身体が飲みこまれてしまいそうで、けれど手を伸ばすほど近くはなくて、何よりも恐ろしかった。スッと通った鼻筋がわずかな明かりを受けて、輪郭を暗闇から縁取っている。それが絵になる光景だったからだろうか、女主は、どうしても目が離せなかった。

だらりと力の抜けた手が、ざらついた消波ブロックを掠める。いつの間に、近くまで流されていたのだろうか。もう放っておくことは出来なくて、それでも怖くて、なんども声にならない声を出し、酸素を求める哀れな魚のように、口をはくはくと動かした。

「……ぁ、」

か細く手情けない声が、のどの奥から漏れ出る。思い切って、手を伸ばした。そして、女主は後悔する。
重たい。水面に浮かんでいるとはいえ、女ひとりの手には余る。引きあげることはほぼ不可能だろう。むしろ、自分が海へと引きずり込まれてしまいそうだった。
目と鼻の先にある水面を見て、ぞっとした。何も見えない。泡立つ水面の奥は、ただひたすらに、黒一色だ。手を突っ込めばどこまでも飲みこんでいくだろう。身体さえも。貪欲な水底は、少女の身体ひとつなどでは到底満足するまい。死は、容易いことだった。

ぱっと手を離して消波ブロックを掴む。爪を白く食い込ませるほど必死に、しっかりと。そうしないと、もう戻れないような気がした。

・・・・・・この人は、このまま流されていくのだろうか。それとも、わたしが人を呼んでくる間に、もう海の底へと沈んでいくだろうか。でも、人を呼ぼうにも、立ち上がれない。

動く気力を削がれ、風でぐしゃぐしゃになった髪もそのままに、女主はずっとへたり込んでいた。その間もずっと、マネキンのように漂っているあの人から視線が逸れることはない。けれど、それはもう見ているというよりは、ただ目の前にあるというだけだった。


変化は、唐突だった。
わずかなまぶたの震え。瞳が、夜風にさらされる。赤い宝石をふたつ、はめこんでいるかのようだった。
薄い唇から、吐息が漏れる。

女主は慌てて赤子のように手と膝で這って、顔を覗きこんだ。長い髪が垂れて、海水に浸り、女主とその人を覆うように、細切れのカーテンを作る。赤い瞳が、この世界のすべてだった。
暗闇で爛々と光る瞳は、およそこの世のものとは思えない。見ているだけで、頭がぼうっとしてくる。思わず彼女が口走ったのは、きっとそのせいだろう。

「そこは、気持ちがいいところ?」

縋るような声だった。赤い瞳は言葉を受けて、ゆらゆらと明かりを灯し、やがてわずかに細められた。いつの間にか伸ばされていた手が、女主の頬を濡らす。その冷たさがどうしようもなく心地良くて、彼女の背筋は粟立った。

「おいで」

きみもおいでよ。もう一度呼ばれて、首の後ろに回された手が、ぐっと女主を引き寄せた。
暗転。
全身を冷たさが覆う。服が身体にはりついて、思うように身動きが取れない。上を向いているのか、それとも下を向いているのか、それすらもわからぬまま、左手だけは、何かに捕まれていた。

何も見えないのは承知で目を開ける女主。ぼんやり、ふたつの赤い光が瞬いていた。それがゆるりと弧を描いたような気がして、背中からしんしんと恐怖が染みこんでくる。左手は不自由なまま、あの人にひかれていく。もう、どうすることも、できなかった。

ごぼ、と口から空気が零れる。腰を掴まれたのがわかった。どこに連れて行くのだろう。何も見えない暗闇の遥か彼方に、いくつもの小さな明かりが煌めいていた。民家の明かりのようにも、星の瞬きのようにも見える。ちらちらと光っては消え、また光るそれらが恋しくて、両手を伸ばすが届かない。

最後の空気も吐ききり、まぶたが落ちようかという時になって、女主は身体がぐっと重たくなったのを感じた。
酸素を求めて喘ぐ口に、勢いよく海水と空気がないまぜになって入り込んでくる。むせてむせて、気がつけば消波ブロックにしがみつき、あの人に支えられていた。声音からして、男の人。

「きみが見たいといったのは、あっち」

再び手を引かれて、波の合間へといざなわれる。もう、恐怖心はなかった。寝転がるようにして、仰向けのまま、波に身を任せる。そっと手を握り返すと、少しだけ力をこめられた。

「きもちいい」

ひんやりとした夜の海に浸り、全身で星空を受け止める。口の中のしょっぱさも、先程の息苦しさも、何もかもが泡となって消えていく。このまま沈んでもいい。ずっとこの空を眺めていられるのならば。

額にはりついた髪をかき上げ、目を擦る。いつの間にか、顔を覗きこまれていた。やっぱり、宝石みたいだ。きれいで、底知れぬ光をたたえている。とろりと溶け出しそうでいて、硬質な深みを持った色だった。

「振り向かないで」
「え……?」

さわり。背中をなぞられた。ひざ裏と肩を支えられ、そのままの姿勢で波を縫って運ばれていく。

「あの、」
「星が、きれいだ」
「え、ええ」
「ずっと、見てて」

水を切るようにしてすいすいと進んでいく彼の声は、やわらかく、けれど有無を言わせないものだった。しっとり濡れた髪から、女主の鼻へとしょっぱい雫が滴り落ちる。薄い青の髪は、きっと、陽の下で見れば輝くように美しいのだろう。鎖骨下まで伸びた彼の髪と、喉ぼとけ。その奥から、星が垣間見えていた。

おとなしく空を見ている最中にも、ぶらついた足を何かが撫でていく。はじめは波に逆らって進んでいるからかと思った。次に、流れ着いた海藻やごみの類かと思った。そして、足首を掴まれた。人差し指をつつかれて、髪の毛を引っ張られた。底知れない何かが、彼女の背後、水底でうごめいている。

耳の傍で、何かが囁いた。おいで、おいで。聞こえないふりをしても、耳を塞いでも、声はずっと追いかけてくる。
きれいなもの、たくさんある。おいで、おいで。いっしょにみよう。ここは、きもちがいいところ。

もはや声も出ない。瞬きも忘れて、にじむ視界に星を映すことしか出来なかった。
元いた場所まで連れていかれて、促される前にブロックの上へとよじ登る。サンダルが片方脱げていて、足首にはくっきりと赤い痕が残されていた。

「そこから見る星も、きっときれいだろうね」

恐怖と寒さで震えていた彼女が顔を上げた頃には、もう男の姿はどこにもなかった。髪から滴る海水を絞り、服も絞る。さざめきは止まなかったけれど、恨めしそうな声音に変わっていた。

そしてざわめく海は、一度星のように瞬き、静寂に包まれる。月よりも星よりも明るいそれが女主の瞳を灼いたから、もう、何も見えなくなった。



【ランターンのだす ひかりは 5000メートルの ふかさ からでも すいめんまで とどくほど あかるい】


main

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -