小説 | ナノ
渚にて

また、海を見ていた。
島から一歩も外に出たことのないわたしが、唯一「世界」を感じられる場所。生まれ育ったこの場所が、嫌いなわけじゃない。ただほんのちょっと、外の世界へのあこがれが強いだけのことだった。

後ろから足音がして、振り向く。こんにちは、と言葉を発した彼は、わたしの横に立って、同じように海を見た。スッと通った鼻筋と切れ長の目を持つ男は、わたしがこの海辺に通い始めたときからずっといて、どうやら毎日欠かさずここに来ているようだった。

「あなた、毎日来てるんでしょう?」
「ん?……ああ、そう、だな」

ゆっくりと、あまり歯切れの良くない言葉を返してくるのはいつものこと。彼は妙に、物事をはっきり言うことを避けているきらいがあった。どんなに些細なことでも、尋ねられたことには目を伏せて、困ったように笑って誤魔化す。そういう物言いしか、出来ない人だった。海風にふんわりと、男にしては長めな金髪が揺れる。

ここは港ではない。けれどこの島にやって来る船はすべて、一度ここを通る。だからうとうとしていれば汽笛の音で目が覚めるし、夜に来れば船と灯台の明かりが呼応するように光っているのがよく見えた。
この島の港は座礁の危険性が高いポイントばかりあるのに、事故の数がとても少ない。きっと腕のいい灯台の見張り番がいるのだろうというのがもっぱらのうわさだった。

眠たげに目を擦った彼の名前を、わたしは知らない。毎日ここに来ていること、夜は家に帰っているのか、ここにはいないこと。それだけだ。
けれど、今更名前を聞くのも何か違う気がして、わたしはずっとそのままにしていた。つんと潮風が香る。今日は風が強い。裾の長い服がパタパタとよくはためいている。スカートを履いてこなくてよかった。

名前は知らない。でも、興味はあった。毎日一人でここに。それはわたしが一方的に知っていることだ。通勤途中にここを通っていて、見かけなかったことは一度もない。それこそ、雨の日も風の日も、欠かさずここに居るのだ。

だから、久々に取れた休日、自然とわたしの足はここに向かっていた。その日以来、わたしは休みの度にここで海を眺めている。わたしが早く来ていることもあれば、彼の方が先に砂浜へと腰を下ろしていることもあった。別に、約束をしているわけではない。ただ何となく、いたら一緒に海を眺める、それだけだった。

「海が好きなの?」
「さあ……多分、そんなに好きじゃないと思う」

意外な言葉だった。でも、腑に落ちないこともなかった。海が好きというだけで、どんなに天気が悪くても、ここへやって来る根性がある人なんてそうそういない。もしも海が荒れていたら、こんな場所にいれば流されてしまう。先日の嵐がやってきた日、わたしはちょっとだけ心配になってここに来たのだ。まさか彼がいるわけはないだろう、と思いつつも、こらえきれずに。

果たして彼はいた。傘もささず、ひとりぼっちで。わたしは驚いて、ほとんど使い物にならない傘を差し出しながら、近場の雨宿りができる場所まで彼の手を引いた。ひどく冷え切った氷のような手と、驚いたような表情が、やけに印象深い。その日以来、彼は少しだけ、笑うようになった。

「景色が好きで通ってたわけじゃないのね」
「今の景色は、どっちかっていうと好きじゃない、かな」
「嫌いだって言っちゃえばいいのに」
「……」

彼は口をつぐんで、視線を海の方へと逸らした。遠くを見つめるその瞳は、海を見ているけれど、そこにはない何かを探しているような気がした。
それが何なのかを尋ねるつもりはない。踏みこんでしまえば、わたしはきっと、ここに来られなくなってしまう。

「……帰ってくるのかと、聞いたんだ」
「……」
「そうしたら、帰ってくる、と言っていたのに」

今度はわたしが沈黙する番だった。

「あと何年待てばいいんだろうって何度も思った」
「何を待っているのか、時々わからなくなる」
「疲れたんだ。でも、探してしまう。照らしてしまう。見つけて、ほしくて」

震えた声が、鼓膜を揺らす。
ずっと彼は、待っていたんだ。帰って来ると言い残して、未だ帰って来ない誰かを。毎日ここから見える、島へと向かう船を眺めて、どの船に乗って帰って来るんだろうと期待して、期待し続けて、その期待に応えてくれない誰かを、待っている。

「答えるのが怖い。応えられなくなってしまったら、きっと俺も同じだから」

歯切れの悪い言葉ばかり並べる男は、どうしようもない臆病者で、腕利きの導き手であるくせに、自分は迷子のままだった。

「あの人が乗っていない船ばかりの景色は、好きじゃない、嫌い、きらいだ」

嫌いなんだよ、とかみしめるように呟いた彼は立ち上がり、服についた細かい砂をはたいた。
太陽は傾きかけており、もう間もなく潮風に乗って夜がやって来るだろう。太陽によってほてっていた砂が、冷えないようにと指先の温度を奪っていく。

「俺を導いてくれる人はいないんだ」

背を向けて歩きだした彼に、わたしは何も言えなかった。今日も彼は、灯台でただ一人、船を導いては待ち続けるのだろう。いつか帰って来るかもしれないその人のために。
そして、明日もまた、嫌いな海を眺めては、嫌いな景色に浮かぶ船を目で追うのだ。隣に座っているのは、きっとわたし。そんなわたしも、「また明日」を言うのが怖い臆病者なのだ。


main

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -