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芽吹きの兆しは空を見ず

よくあることだった。ポケモンバトル中の事故で、大怪我。粉砕された鋼鉄の羽は、ガラスの破片のように鋭く飛び散り、青い空によく映えた。痛みはない。燃えるような熱が、身体の右半分を支配していた。陽光を受けて輝く翼の残骸を目に焼き付けたまま、気を失う。次に目が覚めたとき、俺は真っ白なベッドの上にいた。

「……エアー、ムド?起きたの!?」

視界いっぱいに見えたのは、大好きな主の顔だった。今にも泣きだしそうで、でも嬉しそうな顔が、ぐいっと近づき、また離れていく。ドアが勢いよく閉まる音と、焦りの滲むヒールの音。もたげた首を、柔らかな布団にうずめて待っていると、主に続いてジョーイさんが部屋に飛び込んできた。

彼女たちの会話から察するに、自分はまるまる3日ほど眠っていたらしい。そして、右の翼がなくなっていた。相手のポケモンの攻撃を受けたときには、まだ根元の方はかすかに残っていたような気がするけれど。きっと新しい羽が綺麗に生え変われるように、さっぱり取り除いてくれたんだろう。脇にいたラッキーが気の毒そうな視線を寄越してきたけれど、大して気にならなかった。


俺はその日のうちに退院できた。ただし、家に帰ってからもずっとボールの中にいて、暇を持て余していた。ジョーイさんからも主からも、安静にしているようにと言われてしまったから仕方ない。
本当は、もう大丈夫、心配ないって言ってあげたかったけれど、勝手に出ればまたひどく心配させてしまうだろう。彼女はひどく小心者で、繊細で、心配性だった。

ちょっと悪戯をしても叱れない、怒ったふりをしてみせれば過剰に反応して怯える。そんな気弱な主のことを、俺はそこそこ気に入っている。俺がしっかりしなければと思うし、守ってやりたいとも思っている。こんな翼では当分その務めも果たせそうにないのだが。きっと擬人化して彼女を背負うこともままならないだろう。

不運が重なってトレーナーの間をたらいまわしにされてきた俺は、彼女に俺のボールが押し付けられたとき、ここが終着地点だと思った。気弱な彼女が、俺を捨てられるはずがない。
ましてや、このざまだ。罪悪感でいっぱいになっている今の主には、俺がもう役立たずだから捨てる、という考えが頭にない。
優しいから捨てられないんじゃない。弱いから、捨てることが出来ないのだ。

まだ俺と彼女は出会ってから半年ほど。寒さの厳しい冬の良く晴れた日に出会い、ともに暑い夏の陽射しを迎えた。そしてその陽射しも和らぎつつある。主が優しさから俺を世話しているんだと思えるほど、俺はうぬぼれてはいない。捨てられないだろうという確信に近い思いがあるだけだ。

もともとバトルがあまり好きでなかった主は、今回のことでより一層バトルが出来なくなるだろう。たしかに彼女の指示はうまいとは言えないが、あのバトルで起きたことは本当に事故だったし、彼女にも、そして相手側にも責任はない、と俺は思っている。
・・・・・・むしろ、主が俺を手放せなくなるから好都合だとさえ、思っていた。

「ごめんね、エアームド」

翌日から俺は、家の中でのんびりとした時を過ごした。俺の羽が吹っ飛んだときにバトルしたトレーナーとそのポケモンが謝りに来たり、ジュンサーさんが軽く取り調べをしに来たり。数日後には事故だったとの報告がなされたから、それ以上ややこしいことは起きなかった。

俺の身体を拭きながら、彼女は何度も謝罪の言葉を口にする。そういえば、まだ彼女と口を聞いていない。俺が怒っていると思っているのだろうか。それはそれでしばらく楽しめそうな気もするが、あんまりにも彼女の顔がやつれていたから、その案は捨てることにした。

「ねえ主、」
「あ、エア……」
「俺は大丈夫だよ」

がらんどうの右袖に目が行ったのは、俺も彼女も同じだった。

「でも、こんな、……右手が、」
「主がちゃんとお世話してくれるんでしょ?」
「っ!……うん、だって、悪いのはわたしだから」

ジュンサーさんからも事故だと言われたのに、案の定彼女は自分のせいだと思っていた。
わたしがあのときバトルを断っていれば。エアームドを出さなければ。後悔の種は尽きず、芽を出し彼女を蝕む。

「ごはんも食べさせてくれる?」
「うん」
「あーんしてくれる?俺、右が利き手だったからさ」
「う、ん」

冗談めかした俺の言葉に、くしゃりと顔を歪めた主。やわらかなタオルを握りしめる指先は、真っ白だった。手を伸ばそうとして、片腕しかないことに気付く。そうか、彼女に触れられる面積が半分に減ってしまうのか。それはちょっぴり残念である。

しかし、もうしばらくの辛抱だ。羽が生えてくるのが楽しみでもあり、名残惜しくもある。
ああ、新しい翼を見たとき、彼女は、どんな表情をしてくれるのだろう。驚き?それとも喜び?あるいはその両方?想像するだけで顔がほころぶ。

「主、」

頬に左手を添えると、か細く息を呑む音がした。
そのままさらさらと髪の毛をときほぐす。細く、しなやかな黒髪が揺れる音だけが、しばらく室内に響いていた。



わたしのせいだ。わたしのせいで、エアームドはもう飛べない。

彼は一度だけ、わたしを乗せて飛んでくれたことがある。わたしが風邪をこじらせて動けなくなったあのとき。彼はとても焦っていて、必死にわたしを病院まで運んでくれた。酔って背中の上で嘔吐してしまったことを怒らないでいてくれたばかりか、帰りはわたしを気遣って、人の姿でおぶって家まで帰ってくれた。

鋼でできた冷たいはずの背中は、擬人化していたせいか温かくて、とても安心したのをよく覚えている。

とりポケモンの背中に乗るのは憧れだったけれど、乗せてもらったらまた吐いてしまうような気がして怖かった。空を飛んだのは、あの時だけ。正直、もうこりごりだった。

けれど、彼が飛んでいる姿を見るのは好きだった。高く、鋭く、どこまでも突き抜けてしまいそうな銀の矢。
決して届かないし、わたしにも似つかわしくないその姿は眩しくて、見る度に胸が高鳴るばかりだった。

その矢を折ったのはわたし。
エアームドの羽は、年に一度、生え変わる。一年間使い古してボロボロになった羽を、真新しいものに変えるのだ。きっと、生え変わった翼は綺麗だろう。近づいただけで切れてしまいそうな鋭さと、太陽の光を反射する鋼鉄の翼。内側の赤は燃えるような色で、きっと夕陽よりも美しい。

けれど、ジョーイさんは言った。打ち所が悪く、羽が生え変わるために必要な部位の細胞まで損傷してしまっている、と。ここを切除しなければ、身体全体が壊死してしまう、と。
とりポケモンたちにとって、翼は命そのものに等しい。このまま眠らせてしまうことも、幸せだと言えるのかもしれなかった。

それでもわたしは命を取った。バトルはもうしない。背中に乗せてもらわなくたっていい。生きていてくれたら。それはわがままな願いだったと思う。でも、エアームドが目を開けたときは、本当にうれしくて、幸せで、満たされた気分だった。
その気持ちも一瞬で、あとはただただ薄汚い罪悪感に詰られるだけ。わたしは一生、この気持ちを抱えて生きていく。

翼のことは、まだエアームドに伝えていない。伝えたら、一体彼はどうなってしまうのだろう。怒るだろうか。それとも悲しむだろうか。
わたしの髪を梳いているエアームドの顔を盗み見る。目を細め、穏やかに笑っているその表情の中に、怒りや悲しみの色はない。……今は、まだ。

彼が口を開く。紡がれる言葉のひとつひとつが、ゆっくりとわたしを刺し殺した。

「いつかまた、君を乗せて飛んであげるよ。今度こそ、うまくやるから。ね?」


わたしはどんな顔をして怯えればいい?


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