執心のかたまり エレベータを降りると、地下特有のひんやりとした空気に包まれた。固い足音が無機質な廊下に響く。厳重にセキュリティーかけられたドアの前、胸にぶら下がったカードをドア近くのカードリーダにかざすと、電子音が小さくなってロックが外れる音がした。そのドアを開けるとさらに廊下が続く。人工光が照らすその先にある小さな研究室。私はもうずっと、そこを離れられずにいる。 失って初めて、自分の気持ちに気付く。私はいつもそんなことを繰り返している気がする。 数年前、とある研究で実験が失敗し、パラスが逃走した。逃げてもいい、そう思っていたはずだった。けれども、残ったのは未練と後悔、そしてどうしようもない執心。捨てられない壊れたモンスターボールが、その気持ちを如実に表していた。私はいつの間にかパラスに対して愛着を抱いていたのだ。 その後、とある青年が研究所に入所してきた。毒々しい色彩の帽子に、常に光が反射した丸眼鏡。それから間もなく、常時薄っすらと笑みたたえているこの彼が、ポケモンだということに気付いた。そして彼が数年前に逃げたパラスであり今はパラセクトであるということ、そして彼らは同一人物であり、同一人物でないことを悟った。私は、彼がパラセクトだということを信じてはいなかった。信じてしまえば、知ってしまえば、この抱き続けてきた感情は行き場を失うと思っていた。 かつての彼に対してそうだったように、私は今でも臆病だ。 私は研究室のドアの前でロックを外そうと再びカードを手に持ち――固まった。ドアの細長い磨りガラスからぼんやりと光が漏れ出ている。 ああ、また。 心当たりは一つしかない。彼が来るのはいつもの事だが、彼と会う気が日に日に重くなってきているのを感じていた。今までずっと知らない風を装い続けてきたが、いつか彼が、自ら自分のことを暴露するのではないかと恐れていた。 溜息を吐く。そろそろ逃げずに向き合わないといけないのかもしれない。私は躊躇いつつも、ロックを外した。 「お疲れ様」 ドアが開く音と共に室内に響いた凛とした声に、思わず資料を持っていた手がびくりと跳ねた。 「お疲れ様です」 僕は動揺を隠し、何事もなかったかのように答える。眼鏡の位置を直し、再び資料に目を落とした。カツン、カツンと子気味良い足音が響く。その時、ふとその足音が止まった。そろっと目線を上げると、彼女がいつもの席までの途中でぴたりと足を止めている。彼女の視線先には、大きくひびが入ったモンスターボールがあった。 そこにそのモンスターボールを置いたのは僕だ。思った通りの反応に、僕は震えそうになる手を抑えるのに必死だった。 さあ、彼女はどんな反応をするのか。この部屋に入るのは僕と彼女ぐらいしかいない。そこにそのボールを置いたのは僕だとすぐに気付いただろう。 僕の心の準備はできている。さあ、早く。 僕は固唾を呑んで彼女の言葉を待つ。しかし彼女は何も言わず、そのボールを持って自分の席に座った。そしてそのボールを磨き始める。 何も起きなかったことに気が抜けたのも束の間、彼女の背中を見てモヤモヤとした気持ちが湧き出てきた。 彼女が持っているボールは僕のものだ。いや実際には、僕の進化前のパラスのものだ。今の僕はパラセクトであり、パラスではない。パラスだった奴は進化と共に僕に吸収されてもういない。今も奴の体を借りてはいるが、昔の奴と今の僕は別人だった。 彼女は今でも奴にご執心らしい。 全く面白くない。僕は自分から言おうと決心した。 「あの、質問したいことがあるのですが」 震えそうになる声を抑えつつ、彼女に声を掛けると彼女はおもむろに振り返った。 僕は手に持っていた資料掲げる。これは数年前、この研究室で行われていた研究――まさにパラスが被験体となっていた実験についての資料だ。 彼女が僅かに眉をひそめた。彼女がこの話題を避けていたことは何となく感じていた。しかし引き下がるわけにはいかない。 沈黙が落ちる。それに耐え切れず撤回しようとした瞬間、 「いいわよ」 と言って、くるりと椅子を回して僕と向かい合った。 「これは、」 「ポケモンの可能性を追求する研究よ」 聞こうとする前に、彼女は言った。今まではなかった行動に、僕は驚きつつ慎重に次の言葉を探していた。 「途中で止めてますよね。……一体何があったんですか」 「実験が失敗したの。その時に、ポケモン達がたくさん逃げた。迅速な対応によってほとんどのポケモンは連れ戻せたけれど、戻せなかったポケモンもいる。大きなニュースにはならなかったけれど、研究は中止になってチームは解散されたわ」 知っている。僕もパラスの体を通して始終を見ていた。それにパラスは、逃げて戻らなかったポケモンの一匹だ。 「それもその時に巻き込まれて?」 僕は彼女の机に置かれているひびの入ったモンスターボールに顔を向けた。 ようやく触れられた核心に、僕はそこから目を逸らすことができなかった。あの時、パラスはボールから出されていたために、そのボールが壊れた理由を僕は知らなかった。壊れた理由を、保管し続けられている意味を、僕は知りたいと思っていた。 再び沈黙が流れる。僕は手に力を込めた。手の平から汗がじわじわと滲んでくる。 もういっそのこと、実験で巻き込まれたのだと、資料の一部でそのために保管されているのだと言ってくれ。 そう思って、僕は自分で自分に驚いた。呆れた奴だ。僕はどうやら彼女に言ってほしい言葉があるようだ。 「それは、私が壊したの」 口にすると想像以上に衝撃的な言葉だった。重い空気の中、私の声が無慈悲に響く。 罪悪感が一つ。今更ながら湧いてくる。 壊した理由は彼を自由にしたかったから、なんて綺麗なものではなかった。あの時、どうやってもパラスは見つからず、私は遂に諦めることを決意した。パラスが自ら帰って来ない意味を、受け入れようと思っていた。そんな中、空っぽのボールだけは、ずっと私の傍に存在し続けていた。それがまるで執心のかたまりのように思えて、私はそのかたまりに嫌気が差したのだ。 しかし、ボールに大きなひびが入り、次の瞬間湧いてきた感情は安堵ではなく絶望だった。ボールを壊してしまったことで真にパラスとの繋がりが絶たれてしまったことに、私は今更気づいたのだ。 壊れたモンスターボールは、ますます醜い執心の光を放った。それでもそのボールを捨てられなかったのは、パラスとの繋がりをなかったものにしたくなかったからだ。私は醜いこの感情を、捨てることを諦めた。 彼の言葉が詰まった様子に、私は内心自嘲した。 私に失望した?ショックを受けた?それとも… やっぱり、無理ね。 私は微笑を作って、顔を上げた。 「なんてね。本当は実験が失敗した時に偶々、そのモンスターボールも壊れてしまったの」 私は、それを嘘にした。臆病な私には、彼の失望を受け止める勇気が出なかった。 「そう、ですか」 表情はよく分からなかった。けれどもその一言に、罪悪感がまた一つ、湧いてきた。 本当なのか嘘なのか、僕には分からなかった。それ以上に、彼女から垣間見えた執心の大きさに、僕は奴にひどく嫉妬した。 「僕が、この中に入っていたパラスだって言ったら、信じますか?」 僕の口から無意識に、言葉が飛び出てしまった。 束の間の沈黙の後、彼女は妖艶に微笑んだ。 「信じないわ。だって、貴方はパラスじゃなくてパラセクト、でしょう?」 容赦なく突きつけられた現実に、僕は言葉を失った。 main |