陽だまりの花が咲いた日に その人はいつも、空を見ていた。 何度目かの秋、木の葉が色づき始めるころ。枯葉が風に遊ばれる音を聞きながら、ぼくはその中に違う音がまじっていると気付いて、そっと身を起こした。肌寒い風が吹いていたけれど、その日はおひさまがとっても暖かくて、心地よかったのを覚えている。とてもよく、覚えている。 音がする方に行ってみたら、女の子がひとり、窓辺にいたんだ。長い髪がふんわり、ゆらゆらしていて、やわっこい、って言葉がぴったり。大きなお屋敷の二階にひとり。何を見ているんだろう。ずっと上を向いたまま、頬杖をついて動かない。……あ、目が合った。 不思議そうな顔をして、ぼくをじっと見てくる少女。ぱっちりした目がいつまでもこっちを見てくるから、つい気になって、とん、と足で地面を叩いた。 風が吹いて、ぼくの身体を持ち上げる。上へ、上へ、少女が手を伸ばせば届きそうな、あの木の枝まで。みるみる少女の顔が近くなっていく。それと同時に彼女の目が、これでもかっていうくらいどんどん大きくなっていくのが、何だかとっても愉快だった。 「あなた、とべるの?」 問いかけにうなずくと、また彼女は目を大きく見開いた。そんなに大きく開いてばかりいたら、いつか目玉が転げ落ちてしまいそうだ。 ホーホーなんかが乗ってしまえばぽっきり折れてしまいそうな枝の先に腰掛けて、ぼくは少女の顔を眺めた。彼女の肌は真っ白で、積もったばかりの真新しい雪のようだった。 「何を見ていたの?」 「空を、みていたの。あなたはどこから来たの?」 「遠くから。遠くからきて、また遠くに行くんだ」 ぼくが空を指さすと、窓枠に預けられていた細い指先が、きゅっとすぼまった。 彼女の喉がこく、小さく鳴る。 それからぼくは、少女とたくさん話をした。 彼女のことを、たくさん知った。彼女は身体が弱くて家から出られないこと。毎日、雨の日も空を見ていること。外の景色が大好きで、けれどここからしか見られないこと。 ぼくも自分のことを話した。暖かい場所が大好きで、日向ぼっこが大好きで、いろんな場所を気の向くままにたゆたっていること。今までいろんな街を見て、海も、山も、原っぱも、どんなところだってこの目で見てきたこと。 彼女は色んなことを知りたがったし、ぼくもそれに応えた。ぼくたちは旅をして生きていく存在だから、誰かひとところにいるような存在に旅のことを話すのなんて初めてだった。それでも彼女は一生懸命聞いてくれて、答えきれないくらいたくさんの疑問を寄越してきた。 その全てに彼女が望むような答えをあげられたのかはわからないけれど、頬がいたくなるくらい笑って、口がまめらなくなるくらい話した。 ふと、肌寒い夕暮れの風が吹いて、身体が震えた。そろそろ日没。どこか暖かい場所に身を寄せるべきだろう。 「あのね、お母さんがね、きれいでしょうってお花を持ってきてくれたの」 「コスモスだね。今頃はよく、丘の向こうで咲いてるよ」 「そうなの!あなた、何でも知ってるのね……」 「でもぼくのお気に入りの花はこれじゃないな」 小首をかしげる彼女に「また明日」と言ってから、ぼくは一段と強く吹いた木枯らしに身体を乗せて、飛び立った。本来の姿に戻って、振り回すにはあまりにも短い腕を精一杯揺らし、別れの挨拶をする。 硬直していた彼女は、ぼくのやっていることの意味がややあって理解できたらしく、見えなくなるまで手を振ってくれた。窓から身体を精一杯乗り出して、とても危なっかしかったから、早めに退散するとしよう。 翌日もよく晴れた日で、ぼくはまた、昨日と同じくらいの時間に枝の先で待っていた。 少女は何か用事があったらしく、ちょっと遅れて部屋の中に入ってきた。ぼくの姿を見るなり窓辺にかけてきて、息を切らしながら窓を開けてくれた。 「そんなに急がなくてもいいのに」 「だって、はやく、たくさんお話ししたいから!……あら?」 「これがぼくのお気に入り」 差し出したのは数本の木の枝。淡い橙の花がいっぱいに、けれど小さく控えめに咲いている。そっと受け取った彼女の顔が、にわかにほころぶ。 「いい匂いがする……!」 「丘の向こうには、コスモスとキンモクセイが咲いているんだ」 「これが、キンモクセイなのね」 「うん。いい花でしょ」 少女は何度もうなずいて、何度も深呼吸している。ぼくにとっては季節を告げるもの、毎年楽しみにしているものだけれど、彼女にとっては目新しくて、きっときらきら輝いて見えるのだろう。ぼくもはじめて見たものは何だって、きれいに輝いて見えていたから。 「甘くて、やさしい香りね」 「ぼくはこの花の香りをかぐと、秋だって感じるんだ」 「わたしは栗ご飯が出てきたら、秋だって思うわ」 「栗ご飯?」 知らない言葉。ぼくが首をかしげると、彼女はびっくりしていた。そりゃあ、ぼくにだって知らないことはあるさ。こと、人間の暮らしに関しては。 今度はぼくが、少女から話を聞かせてもらう番だった。 花の名前、街のきらめき、風の匂い。これがぼくの知っていること。 木の実を使った甘いケーキ、枕の柔らかさ、冬の湯船の暖かさ。これが彼女の知っていること。 少女はぼくのことを物知りだというけれど、ぼくは外しか知らないだけだ。彼女は無知なんじゃない、中のことしか知らないだけだ。生まれた世界が違うから、見てきたものが違う、それだけのこと。でも、これだから彼女と僕は話のタネがつきなくて、ずっとずっと楽しいままなのだ。 肌寒さは日増しに厳しくなっていく。 もうコスモスもキンモクセイも花びらを散らしていて、丘の向こうの景色はわびしいものだった。 窓を開けていられる時間も、日増しに短くなっていく。日が落ちるのが早くなったし、それに何より、彼女がとても辛そうにしているから。寒さが身体に堪えるらしい。背中を丸めて咳き込む様子は、ただでさえ小さな身体がより一層小さく見えて、ぼくの心の臓がひどく痛む光景だった。 「あんまり窓を開けちゃいけないって、お母さんもお医者さんも言うの」 「そっか。ぼくもね、そろそろここを離れなくちゃいけないんだ」 「遠くへ行ってしまうの?」 ぼくはもともと寒いところが凄く苦手だし、風に乗って気ままにいろんな場所をふらふらする生き方しかできない。 彼女の身体のことを考えても、もう会うのはよすべきなんだろう。 「気が向いたらまた来年、キンモクセイが咲くころに戻ってくるよ」 「本当に?やくそくよ!」 気が向いたらっていったのに。ぼくは苦笑しながら小指を差し出した。彼女がおしえてくれた。人間が大切な約束をするときは、こうやって互いの小指を絡めるものなんだと。ぼくが仲間とやろうとしたら、綿毛同士が絡まったり弾き合ったりするだけで、ちっとも契れないんだろうなあ。 「ゆーびきーりげんまん、」 彼女は楽しそうに口ずさんでいるけれど、よくよく聞いてみたら結構怖い言葉だ。これは是が非でも、約束を守らなきゃ。 身を切るような寒さを、乾いた風が運んできた。それが別れの合図。 自分の肩を抱く少女に見守られながら、ぼくは勢いよく風に乗り、その身を預けたのだった。 暖かい地で冬を過ごし、雪の隙間から新しい命が芽吹くのを横目に、春の日差しをいっぱいに浴びて育った木の下で厳しい暑さから逃れ、落ち始めた木の葉の間を縫うように飛ぶ。 そうして丘一面を覆うコスモスを空の上から見下ろして、秋の風を全身で感じた。 ああ、今年もキンモクセイが甘く香っている。人の手でいくつか手折り、口に咥えてからまた風に乗る。 大きなお屋敷の端っこの、小さな窓。少し跳ねれば飛び込めそうな位置まで伸びた木の枝。依然と全く変わらない景色に、胸が躍る。 そして、あの時と同じように、枯葉の音に混じって、僅かに窓のきしむ音。横顔が、ほんの少し、ぼくを追い越して大人になっていた。 「いらっしゃい、ワタッコさん」 彼女はいつも、空を見ていた。 だからだろう。ぼくのことを、はじめからやって来ると分かっていたかのように、真っ直ぐ見つめていたのは。 main |