小説 | ナノ
いとはみえず、よるはわらう

森には怖いバケモノがいる。日が暮れたら、あの森に入ってはいけないよ。それがこの森の周辺で暮らす人々に、骨の髄まで染みついたルールだった。
風化して矢印すらおぼろげな看板。きっと「この先立ち入るべからず」とでも書いてあるのだろう。けれど、女主はそんなものに見向きもしないで、ずかずかと夕暮れ時の森に足を踏み入れた。

入ってはならないということはわかっている。
母親も祖父も近所の人たちも、大人はみんな、あの森に近付くなと口を酸っぱくして言う。バケモノがいるから。怖い目に遭うから。昔、森に入ったっきり帰って来なかった人がたくさんいるから。
耳にタコができるほどたくさん聞かされた怖い話。実際に森の中を歩いていると、確かに真昼でも薄暗くて、こんな良く晴れた夕暮れ時でも、茜色の日差しは届かないから、不気味に感じられる。明るさは全て、うっそうとした木々にさえぎられてしまうのだ。


女主は森に入るといつも、誰かに見られているような感覚をおぼえる。腐葉土が厚く堆積したやわらかい地面の上を、息を殺して歩く。どこからともなく仄暗いホーホーの鳴き声が響き、彼女の心臓を震わせた。

タブーとされている森に入るその瞬間、いつも女主は家族の、友達の顔を思い浮かべる。その暖かさを思えば、すぐに踵を返すべきなのだろう。しかし、彼女がそうしないのは、どうしても会いたい人がいたからだ。

湿った落ち葉は、小さな足音を吸い取る。苔むした木々の間を縫って、道なき道を進んでいく。道も看板もないのに、何故だかいつも、彼女は同じところを歩いているような気がしていた。足が勝手に動いて、目的の場所にあっさりとたどり着く。行きはよいよい、とはよく言ったもので、たどり着くのはすぐなのに、帰りはしばしば道に迷うのだった。それでもやわらかい地面には自分の足跡が残されているから、家に帰れないことは一度もなかった。


「こんばんは、おにいさん」
「こんばんは、おじょうちゃん」

初めて会ったときから欠かしたことのないあいさつを交わす。男がぽんぽんと自分の横を手で叩いて示せば、女主は嬉しそうに駆け寄って、傍らに腰かけた。
森の奥にある湖畔。水面を覗きこめば、ゆらゆらといくつも魚影が見える。時には水鳥の姿をしてポケモンが羽を休めていることもあった。


ここが、女主と青年の出会った場所。夜遅く、塾からの帰り道、森の中に浮かぶ光を見てしまった彼女がたどり着いた場所だった。
季節は夏。星のように瞬くレディバの群れに惹かれ、少女は禁忌も忘れて森の中へと飛び込んだのだ。そして夜空と水面を彩る幻想的な光の舞を眺めていたら、ふと人影が見えた。それが、彼だった。

あの時交わした言葉を、女主は一言一句逃さず覚えている。
森に入ってはいけない。知らない人に名前を教えてはいけない。いくつもいくつも「いけないこと」をして、少女は青年と言葉を交わした。そして、約束もした。また来るからね、と。
以来、彼女は塾帰りにこっそりと、この森に立ち寄っている。

「また来たのかい」
「うん。だって、おにいさんはここからでられないんでしょ?」

夕焼けを編み込んだような色の髪をした青年は、目を細めて少女の髪を撫でる。彼の額には、真っ白な角が生えていた。これがあるから、普通の人間は驚いて、怖がって、逃げてしまう。だから、この森から出ることは叶わないのだと男は言った。
それを聞いた彼女は言ったのだ。だったらあたしがきてあげると。

夏の終わり、涼しい夜風が吹く時期になった今、レディバの夜の舞踏会も寂しさを増しつつある。暖かい土地へと旅立つのか、それともどこかで長く眠り、厳しい寒さをやり過ごすのか。女主にはわからなかったけれど、レディバたちのかわりに見える星空も、とてもきれいだと思っていた。この湖の周辺だけは、木々に覆い隠されることなく、空が顔を出しているのだ。

「ね、ヨル。そのツノって、ひっぱるといたい?」
「どうだろう、ひっぱってみるかい?」
「うーん……いたそうだからやめておく!」

この穏やかな青年が、女主は大好きだった。母親のようにぴりぴりしていないし、近所の同級生のように意地悪で子供っぽいなんてこともない。ただ笑って頭を撫でて、言葉を返してくれる。それが新鮮で、けれど安らぎにもなっていた。

ヨルとは女主が付けたもの。名前がないという彼に、夜に出会ったからというだけでつけた、至極単純なネーミング。はじめの挨拶以外、女主はずっとこの名前で彼のことを呼んでいる。

茜色に差し込んでいた陽射しが和らぎ、空が端からうっすらと沈んだ色に塗り替えられていく。もうすぐ夜が始まる。肌寒い風が吹いて、女主は少しだけ、ヨルに身を寄せた。あまり温かくはない身体をしているけれど、少女の様子を察した彼がそっと華奢な肩に腕を回したからか、女主はもう寒いと感じることはなかった。

「レディバさんたち、もういないね」
「どこか遠くへでも行ってしまったんだろう」

夜の帳が落ちていく中、ぽつぽつと言葉を交わす。風に揺られる木々のざわめきと、夜の訪れを告げる鳥ポケモンたちの鳴き声。一番星がどれだったのかわからなくなるくらいに、満天の星がちりばめられていく。

ぐう、と鳴ったのはどちらのお腹だろうか。そっと顔を見合わせて小さく笑い声を漏らす。

「もう今日はおかえり。最近は夜が早いから」
「うん。ヨル、あしたも……」
「明日もここに居るよ。気が向いたら来るといい」
「はーい!」

すっくと立ち上がった少女を見送ろうと、ヨルがゆったりとした動作で背伸びする。女主の手を握り、青年は湖畔の終わり、真暗な森の帰り道までその手を引いた。

「さて。ではさようなら」
「さようなら!」

小さな懐中電灯片手に、少女は森へと足を踏み入れる。怖くないといえば嘘になるが、彼女にとって、ここはもう、バケモノの住む森ではなかった。
獣の低い唸り声が響いても、どこか不安をあおるような鳴き声が木霊しても、聞こえないふりをして進んでいく。頼りは自分がつけた足跡だけだ。

「あれ?」

不思議に思った女主は、懐中電灯をちらちらと何度も往復させて、同じ場所を照らした。
地面にあるのは自分の足跡。それと、何か大きなポケモンの足跡。それは彼女のものよりもぐっと深く腐葉土を押し込めていて、かなりの重量があることを物語っている。足跡自体も少女の顔ほどあるだろう。子どもひとりなど丸のみにしてしまいそうなくらいに大きなポケモンであることは、容易に想像できた。

暑くもないのに汗が出て来て、女主は身を震わせた。森さえ抜けてしまえば大丈夫、そう頭の中で言い聞かせて、足早に歩を進める。どくどくと速まる鼓動に合わせて、電池が切れかけの懐中電灯が瞬いた。そして間もなくそれは、無情にもぷっつりとこと切れたのだった。

「うそでしょ、やだ、やだ……!」

かちかちかちかち。何度もオンオフを切り替えるが、明かりがともることはない。こうなるともう、月が満ち始めたばかりの夜では、星あかりだけが頼りだった。

辺り一面が闇に覆われ、自分の手のひらさえも見えない。女主は泣き叫びたい衝動をこらえ、嗚咽まじりで地面にしゃがみ込んだ。手探りででこぼこを探す。自分の足跡さえたどれば帰れる。それだけが、彼女に残された唯一の希望だった。

「どこ、どこ、あ、」

がさ、と少女の頭が茂みに突っ込んだ。反射的に目をつぶる。細かい枝が髪に絡まり、なかなか抜け出すことができない。小さな葉っぱをいくつもくっつけたまま、ようやっと少女は茂みから頭を引き抜くことが出来た。反動で尻餅をついた拍子に、とうとう涙腺が決壊する。

「う、うう、かえ、りたいっ、よう……!!」

涙で滲んだ視界に、ぽつぽつっとふたつ、明かりがともった。泥だらけの腕で顔を拭ってよくよく目を凝らしてみる。ほんの少し闇夜に慣れた目が、茂みの向こうにある目をとらえた。
低い、唸り声。爛々とした光は、ちかちかと瞬きながら茂みを薙ぎ倒していく。

「こないで、こないで!」

掠れた悲鳴を上げながら、少女は必死に後退る。腰が抜けて立ち上がることが出来ない彼女の、唯一可能な逃避行だった。

グオオ、と吠えたそれは、女主を前にして、悠然と立ち上がる。身の丈は少女をはるかにしのいでおり、獰猛にガチガチと歯を鳴らしていた。

少女が手探りでたどっていたのは、自分の足跡ではなく、このポケモンの足跡だったらしい。つけられていると警戒したのか、はたまた自分の縄張りであったためなのか、リングマは敵意をむき出しにして、女主を見下ろしている。

もはや涙すらも引っ込んでしまった少女は、来たるべき時に備えてぎゅっと目をつぶるよりほかなかった。走馬灯のように、家族の顔、友達の顔、……そして、ヨルの顔が脳裏に浮かんだ。

「よる、よる……ヨル、」
「……おやおや、今夜の獲物は大物だ」

幾筋もの真っ白な糸が、夜空を切り裂いて流星のようにたなびいた。その光景を見ていたならば、きれいだときっと少女は言っただろう。

細く、しかし丈夫な糸が幾重にも巻き付き、リングマの身体の自由を奪う。バランスを崩し、ついにその巨体は地面へと突っ伏した。
そこでようやく少女は目を開く。おそるおそる、視界に巨大な影を映し、息をひとつ吐く。
目の前には、身体の自由を奪われもがいているリングマ。

彼女が肩を叩かれ、弾かれたように振り向くと、そこにはヨルがいた。赤髪が星あかりに照らされて、うっすらと黒々しく風に揺れている。表情をうかがい知ることは出来なかったが、少女にとってはどうでもよいことだった。

「ヨル!!」
「だめじゃないか、ちゃんとお家に帰らないと」
「こ、こわかっ、た、こわかったの」
「うんうん、よしよし」

いつもと変わらない仕草で、ヨルは女主の頭を撫でた。かがみこんだ彼は、泣きじゃくっている少女の手を包み込むようにして握り、そっと額と額をくっつけた。角が当たらないように気を付けて、そっと優しく。

「今日だけ、特別な」

そう言って、ヨルはくるりと背を向けた。女主が首に手を回したのを確認すると、ヨルは立ち上がり、真っ暗な闇の中を、迷うことなく真っ直ぐに歩きだした。ちらりと、一度だけ、横たわった糸の塊を振り返ってから。

安心したのか、泣きつかれたのか、女主はこくりこくりと舟を漕ぎ、やがて青年の首元に顔をうずめて寝息をたてはじめた。

「……やれやれ」

ぐう、と男の腹が鳴る。今すぐにでも空腹を満たしてしまいたかったが、しばらくお預けだ。まあいいさ、と声に出さずヨルはひとりごちる。
目印はとうにつけたのだ。まさか横取りするような輩はいないだろう。

共鳴するように少女のお腹が鳴ったのを背中で感じて、ヨルの口から笑みが漏れる。

「またおいで、おじょうちゃん。」

朽ち果てた森の看板の根元に、そっと少女を横たえて、男は再び森の中へと消えていった。
残された少女の四肢には、誰にも見えない細い糸が、幾重にもしなやかに巻きついている。それは魔法のようで、呪縛であった。彼女はまた、導かれてあの湖畔へと行くのだろう。何度でも、何度でも。夏が終わっても、冬が来ても、初めて会った日と変わらぬあいさつを交わすために。


真っ白な月が、目を細めて森を見下ろしていた。


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