▼ 無垢な唇から滴るカンタレラ
「…
高い声が朗々と辺りに響き渡る。無垢な少女の歌声。歓喜を滲ませたそれは聞く者全てを微笑ませるような楽しげな律動で、聞く人に残酷な歌の意味を気付かせてはくれない。
「お歌が上手いね、アオちゃん」
「そうでしょう?」
背中から声をかけたのに予め知っていたかのように返事を返され、屋根の上に座る男は苦笑した。どれだけ気配を絶ち息を殺しても気付かれてしまう。例え婆娑羅や忍の技を使ったとしても少女の目を誤魔化せた事は無かった。何故かと問えばさも当然のように「心臓の音」と返される。夜兎とは至極恐ろしい生き物のようだ。
機嫌良く再び紡がれた言葉は異国の物で男には当然理解出来なかった。主の好敵手たる少女の主が時に使う言葉に似ているような、似ていないような。単純な律動の繰り返している所からして童歌のような物なのかもしれない。
「ねえ、それってどんな意味なの?」
それは唯の気紛れ。ほんの一匙にも満たない好奇心。夕焼けに染まった少女の瞳が此方を向いた。真円の、紫苑の硝子玉が笑みの形に歪む。
「♪」
この国の言葉に直された歌が同じ曲調で紡がれる。時々つっかえたようになるのは無理やり翻訳した為なのか。先ほどと同じく楽しそうに、明るく朗らかに響き渡るその歌の内容に佐助は目を丸くした。
「これはね、海の向こうの子供たちの歌なの。言葉を話す前から子守唄に歌われるから、片手にも足りない年頃の子が意味も分からず笑いながら歌うの」
再び異国の言葉に戻ったソレは相変わらず無邪気な歌声だったが先ほどまでの微笑ましい気持ちは夕闇に変わった夕焼けの如く消え失せ、深みを増した空と同じ色をした髪を冷ややかに見下ろす。視線に気付いている筈の少女はしかし何も知らない子どものように歌い続けていた。
「
「政宗様…」
着流しの男が隻眼を細め子どもの頭を撫でている。目を細め気持ち良さそうにしている少女はまるで猫の子のようだ。その後ろで溜め息を吐くのは右目の旦那だろう。相も変わらず得体の知れぬ子供を構う主を口外に諌めているのだろう。効果は無さそうだが。佐助も仲間とていつ牙を剥くか分からぬ者を信用する気はない。
「
「わーいご飯ご飯!」
ぴょいっと跳ね上がって犬の子のように後ろを着いて行く少女の真後ろに降り立つ。従者にちらりと鋭い視線を向けられるが追い返される事はなかった。
「さっちゃんも食べる?」
「テメェ…勝手に餌をやるんじゃねぇ」
「え?俺様野良犬扱いなの?」
「
「流石の俺様にも馬鹿にされたって分かったよ」
下らない会話の中でも従者は懐疑の瞳を隠しもせずに少女に向けている。恐ろしさをよく知る部下たちなら震え上がるようなその視線に可愛らしく微笑みで返す子供は分かってやっているのかいないのか。前者に違いないのだろうが、邪気のない無垢な笑みには悪意が感じれず右目の旦那の眉間の皺が二割増しになっている。
「…ねぇアオちゃん?」
「なぁに?」
ぽそりと小さな声で呟くと丸い瞳が此方を向き、歩みを緩める。並んで歩きながら耳元で細やかな疑問を投げかける。
「右目の旦那、怖くないの?」
どう取り繕っても片倉小十郎という男の顔は怖い。泣く子も黙る所か息の根を止めかねない位に怖い。佐助とて睨まれれば背中に冷や汗が滲む程に怖い。同じく顔は整っている筈なのだが笑みを浮かべれば老若男女好まれる佐助とは異なり、笑う事なんて極殺の時だろうしその笑みは失神するくらい怖い。とにかく怖いのだ。
「片倉様はね、政宗様が大事なだけ」
怖くないよと少女は笑う。あれと一緒、と指差した先にあったモノに佐助は思わず吹き出した。
寝床であろう軒下から這い出し好奇心に目を輝かせ辺りを歩き回る子猫。それを追って母らしき猫が現れ注意するが子猫は諦めない。その姿が戦場で逸る龍の旦那と諌める右目の旦那の姿に見えてしまい佐助は震える唇を右手で抑え込む。子猫に例えられた本人は豪快に笑い従者をまざぁやらのじぃやら指差している。きょとんとしている子供を射殺す勢いで睨み付けた後、油の切れた絡繰の如くゆっくりと振り向いた先には。
「覚悟は良いなァ猿飛…」
あ、俺様死んだな。右目の旦那の微笑みを見た猿飛佐助は0.1秒の間にそう思った。(強制的に)始まった命をかけた戦いに夜兎の本能を擽られ参加しようと飛び出したアオは子猫よろしく後ろから襟を摘ままれ政宗に止められて不満そうである。
「
犬歯を見せ付けながら男が笑うと摘ままれた少女も流暢な英語で返す。その内容に男は左目を丸くした。
「
「
「
いつか少女は、両親が居ないと話した。両方殺されたと言ったがはたして悪い母は誰に殺されたのか。
「夜兎には廃れちゃった風習があるんだよね…まぁ、数が少ないのに共食いしてちゃ馬鹿みたいな話だけど」
「…共食いだと?」
「子が親を殺すんだよ。弱い奴は要らないからね。逆に子の方が弱ければ親に殺される。弱い子に用はないから」
弟が2人居るのと子どもが笑う。双子なのに正反対で可愛いと言う様はそこらに居そうな弟思いの姉の顔だ。愛しそうに細められた瞳はしかし、瞬きひとつで凍てついたガラス玉へと色を変える。
「確かに弟達は弱い、まだ小さいもの。それなのにアイツが、私より弱い癖にあの子たち手を出すから」
食べちゃった。
微笑む顔はまるで悪戯をした幼子のようだ。じとりと嫌な汗が背中に滲み見開いた眼球が乾く。昔々、伊達家のため、奥州のため奪った命があった。それら数多くの中の1つ、脳裏に焼き付いた亡骸は果たして本当にそれだけの理由で屠ったモノだったろうか。愛された弟。愛されなかった自分。幼き頃、一瞥もくれない母に抱かれた相反する存在に浮かべた感情は振り下ろした刀と同じくどす黒く濁ってはいなかったか。
「弟を守るのは姉の役目でしょう?」
確信めいた瞳が瞬く。ぞっとするほど青く深い瞳に射抜かれた気がした。知りもしない筈の過去を暴露されたようで息が詰まる。無垢な瞳があの日の弟に重なる。消えてはくれない腹の底に渦巻く澱を見せ付けられたようで悍ましさに口を抑えた。
「アイツは私を気に入ってた。強いからね。だけど弱いから弟達は無視してた」
可哀想な女と呟かれた声はもはや政宗には届かなかった。真逆の処遇に真逆の対応。伊達家の為に奪う命は本当に弟で良かったのか。母を奪われた嫉妬からその刀を振るわなかったと、言い切れるだろうか。
「政宗様?」
「…なんでもねえよ」
怪訝な表情をした従者がちらりと少女を見下ろすが機嫌良く歌い続けているだけで、その丸い眼球には灼けつくような夕陽を映し込んでいる。血を流したかのように色を変えた瞳は全く違うというのに、主が最も憎みそして愛した女と同じ輝きを孕んでいた。
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