「・・・」
ぷかりとキセルを美味そうに蒸かし、紫煙をくゆらす男。雑に束ねた黒髪や地味な袴とは違い、薄い唇に挟んだキセルだけは一目で値打ち物と分かるような品だった。
ゆっくりと空の海を泳ぐ白雲を眺めながら一刻ほどキセルをくわえていた男はふいに言葉を発した
「・・・案外しつこいな」
ついと視線を向けた先から現れたのは派手な紫色の着流しを着た男…こちらもキセルをくわえてニヒルな笑みを浮かべている。
「よう、随分と機嫌良さそうだなァ?」
「ざけんな、どっかのテロリストのせいで気分最悪だ…」
ウンザリという表現がぴったり当てはまる顔の男が溜め息を吐いた。その顔を見て紫色の着流しの男は低く喉で笑った。何が可笑しいと言わんばかりの不機嫌な眼差しに見上げられ、口角が吊り上がる。
「相変わらず素っ気ねぇなァ」
・・・まぁソコがそそるんだが
「…一回その万年春真っ盛りな脳みそ見て貰え」
可愛くない言葉しか吐かない唇は紅を引いたように赤く、艶めかしい。鋭い刀の様な赤い瞳を縁取る睫毛は長く、白い顔に陰影を作り出す。
・・・この男を良く見れば躯の線が華奢な事に気づくだろう。黒い袴から覗く首筋や腕は酷く頼りなく感じる。
・・・それは当然の事だ・・・女、なのだから
「・・・!」
「相変わらずほっせえナァ…」
薄い肩を掴み、畳へと押し付ける。大して抵抗もなく倒れ込んだ女の黒髪がパサリと紋様を描いた。燃えるような眼光が貫く様に高杉に注がれ、その瞳に宿る輝きに背筋がゾクリとする。
・・・獣の眼、だ
鋭い爪で獲物を抉り、喉笛に食らい付いて息の根を止める捕食者の、瞳。
女の身でありながら共に戦場を駆けずりまわった、戦友。乾く間もなく天人の血で体を染めながらも、ギラギラした眼光を失う事なく獲物を狩る女に惹かれた事を覚えている。
「・・・退け」
「断る」
「…ほぉ、その片目余程要らんと見える」
潰してやろうか、と呟いた女がキセルを握り直したのを見て片手で押さえ付ける。
「…他の所を潰されたいか?」
「相変わらず恐ろしい女だなァ」
軽く唇を重ねると容赦なく噛み付かれ、鈍い痛みと共に鉄錆の味が口に広がった。ポタリ、と女の唇に鮮やかな鮮血が伝う。まるで紅の様なソレを人差し指で丁寧に塗り付けた。
「…気色悪いぜ?」
唇噛みきられて何ニヤニヤしてやがる。
「恋人に向かって気色悪いとはヒデェ女だなァ、雫?」
「元、だろうが…」
名前を呼ぶな、と眼光が鋭くなる。紅玉の瞳は血に纏うのが美しい女に良く似合っている。実から零れる果実は鮮血の如く赤く、その蜜は人肉の味がするという。
「…テメェは何故動かねェ?」
天人に支配されたこの国で、あの人のキセルをくわえ、何を考えてやがる。
悔しくないのか、憎くはないのか、大切な物を奴らに奪われて。
フッ、と雫の瞳に影が落ちる。絶望と憂いの混じる、その瞳。無意識なのだろう…キセルを握り閉めていた。
「高杉…俺はもう疲れちまったんだよ」
日々数を減らす仲間達に対し増え続ける天人。蓄積される疲労に削られていく勝利と言う名の希望。
どれだけ刀を振ろうとも湧いてくる敵に自分の足元にある見覚えのある亡骸。
「お前やヅラみたいに、国の為に何かしようなんざ思えねぇんだよ」
得た物は無く、奪われた物は帰っては来ない・・・そして幕府の裏切り。
「あの時に、雫は死んだ」
あの人を喪った時に。
「いまここに有るのは唯の屍だ」
見上げた眼は何の感情も宿っていない。ひたすら底無しの闇があるだけだ。
「・・・頼む、」
俺に関わってくれるな。
興が削げた、と言わんばかりに無言で立ち去った男の背中を眺め、雫は溜め息を吐いた。
「相変わらずだな…アイツは」
夕闇に溶けた紫はもう見えない。もうここには来ないだろう。牙の折れた獣になど用はないのだから。
「・・・母様?」
襖を隔て躊躇いがちにかけられた声は幼い子供の物。
「もう良いよ、北斗」
ソロリと襖を開き飛び出して来た小さな子供を抱き締める。暖かな体温に酷く癒されていく気がした。
「お客様、帰ったの?」
「…嗚呼、もう来ないだろうな」
「喧嘩…したの?」
「いや…まぁそうなのかもね」
黒髪黒目の少年は父親に良く似ている。幼い頃、先生にベッタリだった彼に・・・今もそうなのかもしれない。
「・・・母様?」
「なんでもないよ」
サラサラの髪を撫でると、気持ち良さげに眼を細める。こんな所もソックリだと、雫は思う。
「晋助、俺はもう無くしたくないんだよ…」
腕の中で眠る、愛しい人と血を分けた子供。黒い獣と赤い修羅の血を引く、無垢な幼子。
晋助・・・例えお前を失おうとも、
「この子は私が守るよ」
「…チッ」
酷く苛ついた…腑抜けた白夜叉と牙の折れた赤い修羅。天人に侵された国を受け入れた裏切り者達。
許せないという憤怒と共に沸き上がるのは一抹の寂しさ。かつて寄り添った女は既に刀を捨てていた。
疲れちまった。はたしてその一言にどれほどの意味が有ったのだろうか。数えきれない程の物を喪い、残った者は反逆者として幕府に処刑された。
…ここに有るのは唯の屍だ…
彼女は死んだ。確かにそうだ、戦場を舞った赤い修羅はもうどこにも居ないのだ。ここにあるのは高潔な魂の抜けた、ただの亡骸だ。
「壊すしか…あるめぇよ」
…あの人を奪ったこの世界を。
…彼女を殺した、この国を。
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