…磨き抜かれた黒檀の床に更に濃い斑が散る。抉られた眼窩を呻きながら押さえても滴る血も激痛も収まる事はない。

クチャリ、眼球が噛み潰され美味そうに咀嚼される音が自棄に鮮明に耳に残っている…



『嗚呼、眠い』

右目を擦りながら欠伸をひとつ。朝の通学路は学生で賑わい、嫌でも眠りから覚醒させられる。

ダラダラと歩いていると視界の端に映る黒い影。自棄に大きな口を持ったソイツに向かって小学生が走っていく。

『・・・』

思い切り突っ込んでぶつかる、と思いきや何事もなく走り去って行く子供。

――――やっぱり妖か…

持って産まれた才能か不幸か、パッと見では妖と人間の区別が付かない。もしも自分がさっきの子供のように突っ込めば、容赦なくぶつかるのだろう。“認識”してしまえばそこに“在る”のだから。

「やぁ、おはよう」

『・・・名取』

ポンと肩に置かれた手に振り向くと寝起きにはキツいキラキラした胡散臭い笑顔が目に入る・・・止めてくれ鬱陶しいから。

「鬱陶しいとは何事だ小娘!」

シャーと威嚇しながら突っ掛かってくる羊の角を持つ妖。式神ながら使役する主にぞっこんなのは凄い事だと思う。

『煩いぞ瓜姫、浄化されたいか?』

「貴様如き小娘に浄化させられる私ではないわ!」

「止めなさい瓜姫、君もだ雫」

『へいへい』

「主がそう仰るなら…」

欠伸をひとつ噛み殺し、名取に向き直る。これでも人気俳優らしいこの男が朝からこの辺りを彷徨くのは“本業”の為か。

『・・・』

気付けばさっきの妖が見当たらない。見上げた名取の顔は微笑みを浮かべたままだ。その頬をするりと蜥蜴が這い上がる。

「主っ!!くっ」

背後から大口を開けて襲ってきた妖に瓜姫が凪ぎ払われる。静かに傍にいた柊が刀を抜いて斬りかかるが厚い皮膚に弾かれ、効かない。

名取が紙人形を取り出そうとし、黄ばんだ歯が目前に迫っても、私の心は凪いだままだ。

『・・・八雲』

「此処に」

妖の首に針が生える。其処からポタポタと血が垂れた。鈍色の針はよくよく見れば日本刀で、ザクリと喉を裂いていく。

痛みにもがく事によって自ら喉を裂いていく妖の背後に黒い人影。易々と首に刃を突き立て、妖が自滅するのを待っていた。

『…北に御座すは尊き玄帝、東に御座すは清き蒼帝、南に御座すは猛き炎帝、西に御座すは気高き白帝』

『消え失せろ』

バチン、と激しい破裂音の直後に光に包まれた妖が弾けて消える。静寂とは程遠い通学路の賑やかさが耳に戻ってきた。

「…相変わらずだね」

『そりゃあどうも』

今の光景が見えていない子供達が何事か話ながら楽しそうに走り去っていく。穏やかな風景にまた欠伸が出た。

『さて、私は学校に行きたい所だけど…』

見詰めた先は中学生の集団。その一人が呆然とこちらを見つめていた。

『・・・』

視線が絡み合う。一瞬で顔を青くした少年が仲間と離れ、反対方向へと逃げ出した。

「待て、雫…彼は」

『追って』

「御意」

すっと視界から消えた式の気配を辿り着いたのは森の中だ。ガサガサと風と何かが動く音が聞こえる。徐に手を伸ばすと飛び出してきた少年の手首を捕らえた。

「ッ!!」

思い切り手を引いて草むらに少年を付き倒し、馬乗りになる。空いた手で容赦なく首を絞めると温かい脈動を感じた。人間の感触に首を解放する。

『…君、人間?』

一瞬息を止められた少年は激しく噎せる。解放した手で両手を抑え込み、覗き込むと色素の薄い眼と視線が合った。

「雫、待った!…彼は人間だよ」

若干息を乱しながら走って来た名取に少年が安堵の息を吐いたのに気付く。そしてなんだか瓜姫が生暖かい目で見つめて来るのも気付いた。

「…とりあえず、離れようか?」

妖だと思っていたので容赦なく取り抑えた為に馬乗りである。逃れられないように腰の上に座り、両手首を掴み地面に押し付けている。そして彼は恐らく中学生…自分は高校生。

「小娘…お前…」

『なに勘違いしてるんだ瓜姫お前、消すぞ』

「いやその格好は…はしたない」

『名取、アイツ消して良いか?良いよな?』

「雫、とりあえず退いてあげようか?」

『・・・あ、悪いな少年』

こっちが襲っているような状況に顔を染めた少年を漸く解放する。若干紅くなった首と手首にほんの少し申し訳なくなった。

「アンタ…何者だ?」

警戒されながらの質問に首を傾げる。何だと聞かれると返答に困るなぁ。何だろうと名取を見上げると溜め息を吐かれた。

「彼女は、君が見た通り凄腕の祓い屋だ…と言っても依頼を受けてる訳じゃない」

『祓い屋なんて大層なモンじゃないけどな』

逃げたから妖かと思って…悪かったな。怖かったろ。

『八雲お前、人間て気付いてたろ?』

「私は命に従ったまで」

『・・・はぁ』

「ソイツ…アンタの式なのか?」

『式…って言えば式なんだが、また違うモンなんだよな』

――――契約の仕方が違うんだが…

『君は知らない方が良い』

「…ッ」

『名取と知り合いなんだな…名前は?』

「夏目…貴志」

『私は雫…名字は神代だ』

「彼も妖が見えるからね、それで知り合ったんだ」

『ふうん…それだけじゃあ、なさそうだけど』

「それより君達、学校は?」

「『あ』」

「ヤバいっ!遅刻する!」

『お〜頑張れ夏目。またな』

「雫…君は急がないのか?」

慌ただしく走り出した夏目を見送る。高校生である雫は焦りもせず、のんびりと手を振っていた。

『今から急ぐのも大義だ、帰る』

「・・・今の名字は神代と言うんだね」

『ああ、母方の姓だから知らなかったのか』

今では昔の姓で呼ぶのはお前くらいだよ、名取。

『帰る。またな名取』

背後に妖を連れ歩きだした彼女を見送る。癖のない黒髪。怪しくニヒルに笑うのは彼に良く似ている。

旧姓“的場”の彼女はあの一族当主の妹に当たる。一族より追放されたのは右目が理由か否か、それとも母親が関係するのか名取にも分からない。

「やっぱり、妖が嫌いなんだな」

日本刀を持つ妖。彼女に影のように従う妖は名取の使役する式を総動員しても敵うか分からない程だ。

「柊」

「はい、さっきの妖は確かに依頼された奴です」

「…手間が省けたか」

“厄介な妖を退治する”依頼のためにこの地に来たのだが、その厄介な妖は先ほど一瞬で滅されてしまった。

「やはり、強いね」

ぽつりと呟いた主を柊が見つめる。先ほどまでいた少女の姿はもう見えない。

しばらくして、名取も柊を連れて山を降りた。




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