「正真正銘の化け物だなァ…」
最早部屋の大半を覆い尽くした闇に3人は襖を蹴り倒して逃げる。八雲の姿は闇に溶け、見えなくなった。人質としてか、雫も腕を引っ張られて付いて行くしかない。
『あー、私連れ回って良いのか?』
付いて来るよ?と紫煙の男に訊ねる。現に廊下に流れ出た影は迷いなく追って来ている。飛んでいる船は出口のない牢獄と相違ない。雫を求め、這いずり続ける。
「テメェを放したらアイツは容赦なく仕掛けて来るだろうが」
闇から殺気を痛いほど感じる。少女がこちらの手の内にある間は手を出しては来ないだろう。
「甲板へ締め出して、宇宙空間に出れば消滅するのでは?」
『無理だね、普通の妖ならまだしも八雲は“影”だ。質量的には締め出しても闇は窓硝子を貫通する。宇宙空間にも影はあるからどちらも不可能だ』
「物理的な攻撃は?」
『アンタの足元の影に刀を刺すと良い。結果が分かるさ』
「随分と冷静だなァ餓鬼…手っ取り早くテメェを切り捨てて外に投げても良いんだぜ?」
脅しを含めて少女に告げる。怯えるか怒るか…そのどちらかと思った高杉の考えは裏切られる。振り向いて見た少女は、
―――――艶然と微笑んでいた…
『やってみろよ、くたばりたいんなら』
私を殺してもアイツは止まらない、契約通り私を害した者を徹底的に食い尽くす。少なくともこの船の全員は食われるだろうな。
『さぁ、どうぞ?』
ニコリと微笑んで指された白い首には高杉が付けた刀傷。固まりかけた血をなぞりながら少女は促す。怯えは一切ない。人形のような瞳が瞬いた。
「チッ…どうやったらアイツは止まる?」
『私を離せば止まるさ』
「ククク…テメェを解放した瞬間に喰われるだろうが」
『そうか、ならずっと鬼ごっこすると良い』
捕まったら喰われる遊びだ。簡単だろ?と無感情に言い放った少女を3人は無言で見やる。走り続け近くの扉を潜り、密封する。しかし容易く隙間から闇が流れ落ち、再び走り出すしかない。
「埒が開かねェな…」
『だから早く放してって』
「チッ…仕方ねェ」
再び刀を首筋に当て、足を止める。闇が迫るに連れて薄皮一枚の位置にまで近付けた。じわりじわりと影がとぐろを巻き、蠢いている。今すぐに3人を貫きたいとでも言いたげな真っ黒な氷柱のような闇が揺らいでいた。
『下がれ、八雲』
ピクリ、と闇が跳ねた。それでも不満そうな影は鋭さを失わず揺れている。
『怒りで形さえ忘れたか…』
命令を聞かずに目の前で蠢いている闇を睨み付け、溜め息をひとつ。男が刀を鳴らして急かした。
『契約を違えるか?妖であるお前が?命令違反は契約解除という話だったな』
―――――なら、右目を返して貰おうか?
「ぐっ…う…!!」
ズルズルと闇が濃度を増し、片手で顔を抑え、片膝を着いた八雲が現れる。水溜まりのようになった闇が徐々に八雲に吸い込まれ、八雲と闇との曖昧な境界線を濃くしていった。
「お、嬢・・・」
苦悶の表情を浮かべる八雲を見下ろし、溜め息をひとつ。最近やたら溜め息を吐いている気がする…幸せが逃げてしまう。ただでさえ少ないのに…
『さて、命令を聞いて貰おうか?』
逃げるぞ、と口だけ動かして八雲に命じる。灰色の瞳が瞬き、次の瞬間にはその腕に抱かれていた。刀が首筋から離れた安心感に肩の力を抜く。
「次、雫に手を出したら残った片眼を喰らってやる」
雫を奪い返しながら、盲たら汚い世界とやらも見ずに済むだろうと隻眼の男にだけ聞こえるように呟いた。男が僅かに眼を見開いたのを見やりながら、影を刀の形に固める。
『それでは皆様ご機嫌よう』
壁の鉄板を紙細工のように裂き、朝焼けの空に身を踊らせる。高い所が苦手な雫の為に片手で視界を覆いながら、地上に落ちて行った。
「…面白ェじゃねェか」
風の吹き荒れる音と共に聞こえた愉悦の滲んだ呟きを、雫は聞かなかった事にした。
ストンと体重を感じさせない動きで森に落ちた。首筋がピリリと沁みる。爪で掻いたら血の塊が崩れ落ちた。白いセーラー服に赤茶になりかけた斑模様が出来ている。
『あの野郎、服の換えないのに…』
血は拭えて誤魔化せるがこのまま町を歩くには目立つ。鼻血と誤魔化せるだろうか…格好悪いが仕方ない。
「…勿体ない」
『え?…ちょっ、』
ペロリと首筋を冷たい舌が滑る。突然の事に驚いて変に高い声が漏れる。両手を掴まれ、顎を上げられ急所を晒される。しつこく首を舐める舌の動きに鳥肌が立った。
「…治った」
『…そりゃあどうも』
首に触れてみると浅い切り傷は綺麗に消えていた。この調子でセーラー服の血痕も舐め取ってくれないだろうかとアホな事を考える。いや出来てもして欲しくはないが。
「何か落としたぞ」
『ッ!!』
きらりと朝日を弾いたのは小さな手鏡。八雲が手を伸ばしたのを反射的に叩き落とす。乾いた音が静かな森に響いた。
『…悪い。お前が触れたら怪我するぞ』
自分の手で拾い上げ鏡の裏を見せる。何重にも複雑な紋様を描いた其れは破魔を意味していた。朝日を反射した光は、近くの樹皮に淡く紋様を描く。
「これは…」
『気付いたか…これは魔鏡だ。』
名取との妖退治のために渡された鏡。2枚で一対で、両側から照らし、合わせ鏡にする事で結界を張る。1つでも結構な威力だが鏡を合わせ、紋様を重ねる事で更に強力なモノになる。掌に握り込めるほどの鏡の側面に、ひっかけるような細工があった。
『これで虚も封印出来るだろ』
色々面倒な事は沢山あったが、肝心な虚の情報は全くない。永遠に帰れなくなるのは困る…
「誰が困るんだ?」
心を読んだのか、八雲が静かに問うた。右目を交わした事で、八雲と雫は繋がっている。そのため八雲には雫の感情やら思いやらが流れて行くらしい。生憎八雲の感情は人形(ヒトガタ)が保てなくなるほど激昂しない限りは雫には流れてこないのだが。
『…何が言いたい?私が困るだろう』
「あの世界には誰も待つ人はいないだろう?親兄弟すらお前の帰りを待ってはいない、友達と呼べる人間もいない…」
「名取や夏目は暫くは探してくれるだろうが…異世界に消えた“知り合い”を長くは覚えていまい」
『・・・』
「あの世界で、お前を必要としてくれる人間が居るのか?」
声が、出ない。
否定が、出来ない。
八雲が言ったことが全て事実だからだ。
雫がいなくなった事を嘲笑い暗い喜びを噛み締める人間に覚えはあれど、純粋に心配してくれる人間は誰も知らない。
嗚呼、もしも、もしも夏目が雫の立場に立ったのなら…あの優しい夫婦は心から心配し、居なくなった息子を探すのだろう。
生憎だが雫にはそんな家族はいない。
『・・・だから、どうした?』
――――そんな事は端から分かっているさ…
『私は私のために生きてる。誰かのためにあの世界に帰るんじゃない』
『お前は誰のモノだ?八雲』
「俺は雫の下僕。それが契約、俺の全て」
『ならば余計な口を叩くな。私の感情に介入するな』
「…御意」
無表情に冷たく命じた雫に頭を垂れる。介入するなと言われても、雫の感情は常に流れ込んで来るのだ。もちろん、今この瞬間にも。
―――――本当は、堪らなく寂しいのに…
的場に生まれ、類い稀な能力を有した為に一族でも疎まれた。見鬼の才で人と妖の区別すら出来ず、学校でも近付く子供は居なかった。妖にも、襲われた。
雫の一番近くに居るのは、八雲であろう。
血を分けた父親は家名にしか興味がないし、母親も雫を跡継ぎにと心を病んだ。今は当主となった兄も妹を駒としか見ていない。
八雲とて悪戯に雫の心を抉った訳ではない。誰も雫を見ていない、あの冷たく醜い世界に戻る位なら…この世界に残る方が幸せではないかと思ったのだ。
的場も天宮も関係ない、ただの少女である雫として過ごせたのなら…
雫の幸せが八雲の幸せ。
右目を喰らい、雫の側に居続けた事によって八雲には妖らしかねる感情が沸いたのだ。
契約によって雫と八雲は主従だ。この関係は一生変わらないだろう。ただ、雫が笑うためなら八雲は何だってする。
雫が望めば…忌まわしい当主や、雫を害する人間全て喰らってやるのに…雫はそれを望まない。
雫は人殺しを好まない。あの男と同じ立場を望まない。八雲が手を下せば、雫の手は汚れはしないのに。それをしてしまえばあの男と同じだと、雫は首を振った。
『昼になったら万事屋に向かう。何か情報があるかも知れない』
「ああ、そうだな」
強い光を湛えた瞳も、綺麗に伸びた背筋も、本当は酷く脆い。誰かが支えなければ、きっと容易く折れてしまうのだ。
今は八雲が支えている、この小さな背中。いつか雫を笑わせてくれる、誰かが表れたら良い。自分は幸せな雫を見守るだけで十分だ。
朝日を正面から受けた雫は酷く神々しい。八雲にとって、雫は神に等しい存在だ。
『行こう、八雲』
「御意」
この小さな唇が、愛しさを込めて他の名前を呼ぶときが来るのだろうか?それはそれで嫉妬の情が湧くが…今は自分の名前だけを呼んでくれている。それで十分だ。
八雲は僅かに口角を上げ、少し離れた雫との距離を詰めた・・・
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