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いつの間にかカミツレの香りはすっかり薄くなっていた。使い続けた仄かな香りも好きだが、やはり新品のはっきりした匂いの方が嗅いでいて安心する。いつもならそろそろ新しいものが必要だろうと向こうからきてくれるのに、どういうことかこの頃は京楽の姿を全く見かけない。仕事もひと段落したところで、今日こそはと意気込んでみる。


「ねえ、京楽隊長見てない?」
「さっき執務室にいましたよ」


執務室に行くと、五席がいた。


「京楽隊長はいらっしゃいますか?」
「浮竹隊長と食事に行かれている」


十三番隊と食堂を探しても姿はない。ちょうど昼食をとっていた朽木ルキアに声をかける。


「京楽隊長を見てませんか?浮竹隊長とお食事に行かれているみたいなんですけど」
「おふたりでしたら、先ほど隊舎は戻られたようです」
「…入れ違いになっちゃった…」


そして八番隊へ戻ると、今度は誰も行方を知らない。最近はずっとこんな感じで、どうあっても京楽がつかまらなかった。今までこんなことはなかったので妙だ。なにか粗相をしただろうか、距離が近すぎただろうか、しつこくしすぎていただろうか…。
こんな調子で探し回っていたおかげか、夕方近くになってやっと京楽の後ろ姿を見つけることができた。ふたりが足早に隊首室へ向かおうとするので、なまえは慌てて引き留めた。


「京楽隊長っ…あの、少しよろしいでしょうか」
「……ん、いいよ。なんだい」
「………えっと…」


半身振り返ってくれたものの、いつもなら伊勢にふたりにしてくれと一言断ってくれるのに今日はそれがない。気まずい沈黙のあと伊勢の方から気を利かせて「先に行きます」と離れてくれたからいいものの、京楽はいったい、どうしたのだろう。なまえはピリッとした気迫のようなものを不思議に思いながら、乾いた唇を舐めて言った。


「…京楽隊長…あの、お忙しいですか?」
「仕事のことが聞きたいのかい」
「………すみません……」
「言ってごらん。悪いけどあまり時間がないんだよ」


急かされている心地悪さから逃げたくなったが、逃げたところで後味はもっと悪いだろう。眉間に力を込めながら、冷ややかな男をじっと見上げた。


「……………私、なにかしました?」
「なにかって?」
「…どうして急に素っ気なくするんです。さすがに少し…びっくり、します」
「………ボクは必要ないと思ってね」
「必要ない?どういうことですか?」
「平子隊長は戻ってきたろ」
「…それは、そうですけど」
「戻ってきたんだ。よかったじゃない」
「よかったですよ、でもそれは私だけじゃなくてみんなも…」
「みんな?つまんないこと言うね」
「…空席だった隊長の席が埋まったんですよ、業務的にも良いことじゃないですか」


京楽はろくに答えず、返事ともつかないため息をこぼした。まるで早く切り上げてくれと言わんばかりの態度だ。笠のせいでろくに表情も見えず置いて行かれた子供のように寂しくなり、なまえは思わず京楽の袖を引いた。


「隊長っ…あの、私……」
「なまえちゃん」
「………はい」
「平子隊長が戻ってくれてよかったね。ボクはもうお役御免だ。考えてみりゃ長いこときみのそばにいたねえ、楽しかったよ」
「………平子隊長の代わりなんて…思ったことないですよ…」
「でもじっさい、そうだったろ」
「違いますっ…京楽隊長は……私のこと…」
「可愛い部下だと思ってるさ。そして大切な預かりものだった」


すぐには理解できない言葉だった。それがすとんと腹の底へ落ちた瞬間、なまえの背中に冷たいものが流れた。

終わらせようとしている。
平子隊長が戻ってきてよかったね、と、全てを、終わらせようとしている。

繋ぎ合わない心と現実をなんとか噛み締めて、それだけが分かった。でなければ京楽がこんなに冷淡な眼差しを向ける理由が分からない。回らない頭でどれだけ考えても、前向きに捉えようとしても───自分はもう必要ないのだというみっともない答えにたどり着くばかりだった。


「…………預かりもの……」
「また前みたいに楽しく過ごせるじゃない。きみが心から望んでいたことだと思うけど」
「…一度もありませんでした?」
「うん?」
「……私を好きとか…一度も……?」
「お互いにそうだったろう」


───お互いに?

ほとんど衝動的に手が伸びて、京楽の張りのない頬を強く叩きつける。思い切り叩いたせいで手のひらがジンと痛んだが、そんなものお構いなしに声を張った。


「馬鹿にしないで…っ…ちゃんと、心から…ずっと……ずっと………」
「… なまえちゃん」


自分では弁えていたはずだった。
そういう関係だっただけで、心から繋がっているわけではないと言い聞かせてきたはずだった。
それでも京楽が特別優しくて………自分だけが彼の唯一だと希望が溢れてやまなくて………………。


「……馬鹿みたい…」


血の気の引いた頬に乾いた笑いが浮かぶ。なまえはもう京楽に一瞥もくれず、よろめきながら詰所への廊下を行った。
女の掠れた自嘲の笑いは、翌朝起きても京楽の脳裏にべっとり張り付いたままだった。





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