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眠れない夜は図書館へ通った。
奥まった書庫の隅を陣取って、平子をはじめとした例の隊長格たちの名前が連ねられている真央霊術院の学生名簿を宝物のように抱き、思い出の中へどっぷり浸る。咎める者のいないこの時間がなによりも特別なひとときだった。
ホタルカズラの照明が照らす薄暗い閲覧室で、時を忘れて平子の名前をじっと眺めていた。


『平子隊長………』


ページをめくった指で名前をなぞる。
頬を伝う涙が、平子の名前の上に落ちた。
いつかこの文字も消えてしまうのだろうか。
全て無かったことにされるのだろうか。
日に日に平子の名前を聞かなくなることが瀞霊廷への疑心に変わりそうだった。
平子に憧れ、恩を感じ、ついていきたいと言っていた死神たちは新しい目標を携えて前に進んでいる。いつまでも拘ってはいけないと自分自身を奮い立たせ、昇進したり功績を上げたりと輝かしい道へ踏み込んでいる。
褒められるべきその態度を、なまえは薄情だと蔑んだ。


『なまえちゃん』
『………京楽隊長…』


集中しすぎたあまり、誰かが入った気配に全く気が付かなかった。腫れた瞼を瞬きさせてピントを合わせると、入り口にもたれて立つ京楽の姿があった。


『こんなとこで何してるんだい?』
『ほ、本を……読んでいました』
『霊術院の名簿で読書とは変わった趣味だねえ』
『使用申請は出しています』
『きみはもう八番隊なんだよ。うちの子だ。不満だろうけど従ってもらわなきゃ困る』


柔らかな言い方だが、語気は強く、居た堪れない気持ちにさせるだけの圧があった。恐縮したなまえが涙を浮かべるも、京楽は、いやいや、と明るい声で言い直す。どうも女の涙には弱い。京楽は顎に手をやってなまえの顔を覗き込んだ。


『そんな顔しなさんなって。なにも平子隊長の名前を出すなってわけじゃないんだ』
『……すみません。いつまでもこんな』
『少し話そうか。今夜はボクも眠れなくてね。よかったら夜更かしに付き合っちゃくれないかい』
『…でも』
『来なさい』


隊長にそう言われると逆らうわけにはいかなかった。京楽も、それを見越して強い言葉を選んだ。


+++


八番隊執務室は思いのほか片付いていた。もっとだらしのない男だと思っていたので拍子抜けしたが、妙に整理されている部屋の様子はしっくりこないところもある。
同じ執務室でも五番隊とはまる雰囲気が違った。
京楽の趣味であろう品の良い調度品が部屋のあちこちに置かれていているし、なにより室内にはオリエンタルな香りがたっぷり満ちてる。はじめて意識する大人の男の匂い。どきどきするほど、深い匂い。慣れると癖になりそうだ。
ソファをすすめた京楽は遠慮なく隣に腰を下ろし、さて、と話を切り出した。


『話したいことがあれば言ってごらん。そんな顔しないでよ。何を言っても人事査定に影響はないよ』
『…もう誰も平子隊長の話をしないんです。まるで全部なかったことみたい。みんな平子隊長を…』
『そうかい。まあ気持ちは分かるけどねえ、平子隊長の名前を頻繁に口にするのはよした方がいい』
『どうしてですか』
『中央の裁定に異を唱えるって?怖いおじいちゃんたちに睨まれちゃうよ、四十六室ってそういうとこさ。あらぬ疑いをかけられる前に、賢い立ち回り方ってもんを覚えても損はないんじゃないかい』
『…だって…急にいなくなったなんてそんなのおかしいじゃないですか』
『ああしまった、お茶を淹れてくるんだった。ちょっと待っててね』
『あ、あの…もう戻りますから』
『ツレないこと言わないでよ。思い出話といこうじゃない』


引き止められると、なぜか断れなかった。悩みも苦しみも全てを忘れさせてくれる力強い声はひび割れた心の中にじわじわと滲んで、内側から癒してくれた。

(隊長の声、いいなあ。子守唄みたい、聴いてるとすごく落ち着く……)

会話のリズムも、声のトーンも、何もかもがちょうど良い。京楽の豊富な経験から自然と溢れる優しさや気遣いが、ぎこちないはずの空間を癒し、和らげていた。
淹れたての湯呑みを手に戻ってきた京楽はなまえの隣に座り直し、『熱いから気をつけて』と一言付け足す。
お茶を飲むと喉から腹にかけてすうっと熱くなり、一口飲んだだけなのに指先までぽかぽかと温まった。なまえがほっと一息ついたのを確認し、京楽は机の引出しから小さな包みを取り出した。


『そうそう、なまえちゃんにこれを』
『これは…香袋ですか?カミツレ?いい匂い………」
『おっ、よく知ってるねえ。いい匂いでしょ。もっと早く渡してあげたかったんだけど、遅くなっちゃったよ。今夜みたいに眠れなかったり不安になったりしたら香ってみるといい。きっと落ち着くよ』
『………申し訳ありません、京楽隊長。京楽隊長だって矢胴丸副隊長が心配ですよね。私、自分のことばっかりで恥ずかしいです。本当にすみません』


なまえは彼らが生きている前提で話している。根拠もないくせに、無事を微塵も疑っていないのだ。いっそ真実を教えてやりたくなるほど愚直に信じている。虚として処分され、ある者は追放、ある者は逃亡したと言ったら、かわいそうな女はどうなるだろうか。いっそのこと真実を告げてやった方がいいのではないか───。


『京楽隊長?』


胸によぎった残酷な考えにハッとし、京楽はいつもと変わらない微笑を口の端に滲ませた。


『なまえちゃんはいい子だね。本当、お利口さんだ』
『そ、そんなことありません。…あの、そろそろ寮に戻ります。隊長も早くお休みになってください』
『寮まで戻れるかい?今夜はここで寝るといい。朝になったら起こしてあげるよ』
『あ、ありがとうございます。でも、いいのかな……』
『ほらほら、早く寝ないとお肌に悪いよ』
『………平子隊長、きっと無事ですよね』
『……』
『だから、ね、京楽隊長…矢胴丸副隊長も……きっと、大丈夫です……』
『おやすみ、なまえちゃん』


京楽が横になれるほどのソファは、なまえが横になってもまだ余裕がある。心地よい微睡に全てを委ね、なまえは久しぶりに夢も見ないほど深い眠りに落ちた。


『ボクもこんな風にひたむきになれたら楽だろうねえ……。歳をとると何でも経験で考えるから嫌ンなっちゃうよ』



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