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なまえは背筋を伸ばし、二人の背中を見送った。
阿散井とルキアのまっすぐな眼差しが、胸の奥で百年眠っていた心を叩き起こしたようだ。
阿散井とルキアのように、黒崎のように、自分を強く信じて歩くべきだと信仰めいた光が射す。すると、それまで真っ黒に澱んでいた視界が一気に晴れた。

(もう遅いかもしれないけど、私も阿散井くんみたいになりたい。あんな風になれたら、きっと平子隊長も喜んでくださるかもしれない。あの人が無事でいてほしいけど、でも仮にそうでなくても、もう私も前に進みたい。自分のことを、ちゃんと好きになってあげたい……)

しがらみ、軋轢、足枷。
なまえを雁字搦めにしていた多くの鎖が解けて、体が軽くなった。
平子に執着していた自分も京楽に惹かれる自分も認め、受け入れ、前を向いて生きていけばきっとこの自己嫌悪の沼から抜け出せると、本気で希望が沸いた。
日の落ちた空に濃紺のベールがかかる。
風のない静謐な空だ。
決意をするには完璧な夜だった。
見通しの良い廊下を突き進み、明日から浦に稽古をつけてもらおうと決めたその時、晴れていたはずの空に一陣の風が強く吹いて厚い雲が月を覆い隠してしまった。
不穏な暗さが瀞霊廷を包み込む。
じっとりと嫌な汗が背中に流れた。


「そっちから来てくれると思ったんだけど」


突然、背後から声がする。
口から心臓が飛び出そうなほど驚いたなまえは、背後に立つ京楽の姿を振り返ってひっと息を飲んだ。


「び、び、びっくりした……!脅かさないでくださいよっ、隊長……」
「向こうで阿散井くんに会ったね?」
「……いえ、会ってません」
「お、口が堅いねえ。立派立派。でも大丈夫だよ、みんな分かってる。ボクらにも戦闘準備の命が下ってるぐらいだからね」


この男は本当に京楽だろうか。そう疑いたくなるほど底知れない気迫を醸し出ていた。声色こそ穏やかで普段と変わりないはずなのに、向かい合うだけで冷や汗が止まらないのはなぜだろうか。
なまえは視線だけで伊勢を探したが、頼りになる副官の姿はどこにもなかった。


「不安なときはおいでって言ってんのに、ツレないなあ」
「あ…先日はお見苦しいところを見せてしまい、申し訳ありませんでした」
「浦くんも辛辣だよねえ。ひたむきなのはいいとこなんだけど」
「でも、自分でも納得したんです。浦くんの言うとおりだし、刀だって私がこんなだから通じ合えないんだし、……だから、」


縋りつきたい気持ちを抑え、熱意溢れる後輩の背中を必死に思い描いた。
平子真子が誇れるような部下になり、後輩たちのお手本となり、自分に自信が持てるようになれたら、いつか好きだと言いたい。京楽の優しさにつけ込むのは一旦やめて、気持ちを切り替えたかった。

心の終着点はそのままで変わりたいと願う女心を、京楽なら受け取ってくれると本気でそう思っていた。

しかし期待とは反対に、京楽は冷たい落ち着きを顔に浮かべたままだ。尻すぼみになるなまえの言葉を遮って、なまえちゃん、と続ける。


「君の好きににしていいんだよ。彼のことにしても、刀のことにしても」
「い、いえ、私もっとがんばります。みんなに認めてもらえるように」
「立派な心意気だ。みんな今以上になまえちゃんを頼るだろうね」
「そんなこと………」
「浦くんに間違いを指摘されて納得しちゃった?」
「間違い………というか、…私は平子隊長の部下として、もっと、…その、向上心を…もって……、」
「立派な志だね」


吐き捨てるような物言いに不安が加速する。
白けた眼差しに怯んでしまい、組み立てたはずの決意表明がみっともなく吃った。

(どうしてそんな顔をするの?)

いつかあなたに、好きと言うから。
自分に自信を持てるようになるまで、頑張るから。
あなたに相応しい女になりたいから、だから。

京楽は唇を薄く開き、ため息と一緒に錆びた声を滑り出した。


「じゃあ全部やめるかい。信じて待つのも、ボクとこういうことするのも」


太い親指が唇に触れた瞬間、唇がそうっと重なった。驚いたのも束の間、すぐに思考はとろけ、離れたくないと思った。他の誰にも渡したくないと思った。こんな風にキスをするのは自分だけであってほしいと望んだ。
固めたはずの決意の芯はすかすかで、中身のない見掛け倒しの見栄でしかなかった。再び自分に失望しながらも、厚い唇を求めずにはいられなかった。


「んっ、ぅ、……京楽隊長、わたし、」
「やめたいなら、やめようか」
「やだ、やめない……やめない、」
「明日、現世へ発つんだよ。もう聞いてるね?だから今夜はなまえちゃんを独り占めさせてほしいんだけど」


ねっとりと鼓膜に絡みついた低い男の声が心の全てを水泡に変えた。覚悟は、水に濡れた紙のように萎んで、千切れて、塵になる。こんなものだ、覚悟なんて。京楽の前では全てが彼の思い通りになってしまう。自分の心でさえも。


「朝まで一緒にいてくれるね」


京楽の手がうなじに触れると、気持ちは簡単に覆ってしまった。
いつの間にか身八つ口から差し込まれた硬い手が感触を味わうように胸の膨らみを揉む。下着を着けているとはいえ胸の先をクリクリといじられると、甘ったるい声が勝手に漏れ出てしまった。


「っ……京楽隊長、」
「部屋までお互い我慢だね」


そう言うくせに、差し込まれた手は動きを止めない。歪に盛り上がった胸元を見て、なまえは艶のあるため息を吐いた。



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