▼ ▲ ▼

阿散井は夢を見ていた。

真新しい死覇装に着られた若葉のある日、いよいよ明日から配属先での仕事が始まるといったときのことだ。ようやく死神になれた安堵と新たに始まる生活への不安でぐちゃぐちゃになった胸が落ち着かず(どちらかといえば、不安の方が優っていた)、夜遅くまで眠れないでいた。翌朝は当然のように寝坊し、焦りすぎて集合場所の中央詰所の場所も分からなくなり、自分が今何番隊の廊下にいるのかも把握できず右往左往していた自分はなんと滑稽だったろうか。

遅刻だ、だっせぇ、つうか誰も通らねえの、どうすりゃいいんだ───。

『どうしたの?』
『あ!あのっ…中央詰所ってどこっスか!?』
『中央詰所?ずっと向こうだけど』

そこで声をかけてくれたのがなまえだった。
青褪めた阿散井を覗き込んだ彼女は、少し意地悪そうな笑みを浮かべて『迷ったんだね』と言い当てる。ぐうの音も出ないとはこのことで、阿散井は青くなったり赤くなったり。

『案内しようか。近道知ってるの』

言葉通り、彼女は新入隊士が知るはずのない廊下をぐんぐん行った。途中、女子トイレの窓を抜けたらすぐなんだけどねと悪戯っぽく言われたが、どう反応したらいいのか分からなかったので、はあ、と気の抜けた返事だけをした。
彼女の三歩は阿散井の一歩だというのに、しっかりとした足運びはとても頼もしく見える。辿り着いた先で待ち構える厳しいお叱りへの不安も、不思議と少し落ち着いていた。

詰所ではオリエンテーション真っ最中で、落ち着かない様子の新米隊士たちがひしめき合っていた。壇上に上がる五番隊の席官は見るからに厳しそうな男で、阿散井はごくんと喉を鳴らす。絶対に怒られると覚悟して入ろうとする手を、なまえがちょっと待ってと制した。

『まだ待って、この話が終わってから入ろう。こんな空気で入ったら、君、注目の的だよ』

どうやら彼女も遅刻や注意の常連で、自分なりに怒られにくいタイミングというものを掴んでいるらしかった。言うとおりにして、ただ待つ。
席官の話が終わり、十分休憩と言われたタイミングでなまえが意気込み、ドアを開いた。

『おはようございます。失礼します』

ずいぶん気の抜けた声だった。
壇上から降りた席官が二人をじろりと睨みつける。びくっと冷や汗を流す阿散井とは反対に、なまえは涼しい顔して言った。

『間に合ったかな』
『いや、過ぎてるんですけど!』

厳格そうな男はやや怒り気味な険しさを表しつつも、なまえに対して敬語をつかった。そこで、今自分をここまで案内してくれた女性がもしかしたらものすごく上の立場の死神なのではと、阿散井の背中に違った意味での冷や汗がツウと流れた。

『この子ね、道に迷っちゃったんだって』
『阿散井、貴様…』
『名前覚えてるの?すごいね』
『新入隊士の名前ぐらいは覚えてます』
『やるじゃん。そうそう、この子昨日すごく緊張してたんだって。怒らないであげて。憧れの護廷隊だもんね』
『…………… なまえさんに言われちゃあな……』
『懐かしいね。あなたも昔───……』
『俺の話はもういいんでさっさと行ってくださいっ、ウチの新人がご迷惑をおかけしましたっ』
『はぁい』

彼女はどんな女かと訊けば、誰もが「普通」と答えるだろう。ただ誰よりも長く在籍しているということをのぞけば、特筆すべき点はない。
昔から、阿散井は彼女のそういうところが好きだった。
特別ではないのに話すと安心したし、なにより彼女の言葉には含蓄があった。
ルキアの処刑に思い詰める自分にくれた「できることを探せ」「後悔しないように」といった言葉は、普遍的かつありふれたものだったが、どこか鼓舞するような力強さを孕み、それが、彼女自身の後悔を仄めかしているように感じた。だからこそ胸に響き、自らを突き動かすエネルギーの一端を担ってルキアの処刑を引き止める手助けをしてくれたのだ。
だが、なまえはどうだろう?わだかまりは消えたのだろうか。消化して、前に進めているのだろうか。


─── なまえさん、なんか後悔してるんですか。なにかあったんですか。


あの頃も今も、尋ねるには自分たちの仲は浅すぎた。
なぜ今になってこんなことを思い出すのだろう。昼寝から目覚めたら阿散井はぼんやりとする。日当たりのよい廊下に出ると、ふんわりカミツレの香りがした。


「あ、恋次さん。この間来てた女の人が探してましたよ」
「女?誰だよ」
「えっと…あ、そうそう、なまえさん」
「なまえさん?俺を探してたって?」
「はい。話したいことがあるって」


運の悪いことにその日は月初の会議がスケジュールいっぱいに詰め込まれていた。なんとか仕事を片付けて八番隊舎へ駆け込んだときには、既に西陽があたりを眩しく照らす頃だった。
彼女の霊圧を辿って外にある八番隊隊舎裏の練習場を覗くと、彼女は京楽と二人でそこに立っていた。
意外な組み合わせだったので、ふうん、と阿散井の眉が上がる。
演習なのかと思えば周りには他に誰もいないし、二人は妙に距離が近いし、見れば見るほどますます謎めいたシチュエーションだった。丘の上から二人をぼうっと見ていると、突然、なんの前触れもなく京楽が屈み気味になってなまえの方へと顔を近づけた。


(………は?)


あの男の笠の下で、なにが行われているのか。それを察せられない阿散井ではなかったが、にわかには信じ難かい光景だった。
ようやく離れたかと思えば、なまえは恥ずかしそうに笑って京楽を見上げている。その顔といったら、いつも自分に向けるものとは違う、湿り気のある潤んだ表情で─── なまえを「そういう」目で見たことなどなく、また「そういう」風に見てはいけないと無意識にブレーキをかけていた阿散井の心がぶるりとあわ立った。
彼女がこちらに気付く様子は一切ない。
そういえばあの人の霊覚はお粗末だったなと、関係ないことへ必死に思考が逃げた。
昔からよく知る姉のような存在が、性的な輪郭を帯る。それはあまりに生々しかった。京楽を見つめる熱っぽい眼差しも、真っ赤に染まった首筋も、………。


(あの人、あんな顔するのかよ)


嫌悪とまではいかないが、タブーに触れてしまった焦燥に駆られて、阿散井はその場を去ってしまった。


「なまえちゃん、阿散井くんと仲良いんだっけ」


なまえの髪を撫でて京楽が尋ねる。甘い雰囲気を破るような質問に、なまえが小首を傾げた。


「仲はいいですけど……なんで急に阿散井くん?」
「いや、なんでもないさ。それよりもう一回……」
「ほ、他の人に見られたら困るので……」
「もう遅いよ」
「え?」
「かわいいなあ」


霊覚を鍛えるのが先かとも思うが、これはこれで可愛いので、京楽はしたり顔のまま何も言わなかった。





- ナノ -