『……そろそろかしらね』 不意に、チャットが飛び出した。「うわっ」一瞬気が逸れたゼロは、危ういところで穂先をよける。ちぎれた毛髪が宙を舞った。 『チャットさんっ!』 『ん、ちょっとね、忘れ物よ』 アリスの非難もなんのその、彼女はふらりと夜闇に消えてしまった。 それを気にかける余裕は、今の青年にはなかった。代わりに延命策を思いつく。ゼロは御者台に向かって声を張り上げた。 「左右に揺さぶりをかけられませんか!?」 「やってみるわっ!」 トラック内をジグザグに駆け抜けることによって、なんとか相手を引き離そうという作戦だ。これは功を奏し、ささやかなゆとりができた。 弓と剣を交互に使って、必死に夜盗との隔たりを広げようとする。この戦術は諸刃の剣だ。もし急所に当ててしまったらと思うと、弓矢の狙いはなかなかつけられなかった。 ゼロが全力を振り絞って、瀬戸際の攻防を繰り広げていた時。もう一頭の、圧倒的に軽やかな音が異なるテンポを主張し始めた。 『ほら、エポナ連れてきたわよ!』 驚きは力強い笑みへと変わる。白い妖精が頼もしい味方を連れて、帰ってきたのだ! 群を抜く駿馬が肉薄し、夜盗側の馬の足並みを乱した。続いてチャットが己の光を持って、騎手の目を惑わせる。生きた軌跡が夜空を駆け抜けた。 その光景を見て、布団の中で薄く微笑んだ者が一名。 (チャットお得意の手だな) クリミアがじっとりしてしまった手綱を握りしめ、快哉を叫んだ。 「もう少しで抜けるわ!」 再び弓を手に取ると、ひときわ冷静な声がゼロの鼓膜を震わせた。 「……チャット、聞こえるか」 「リンク!?」 ちらり背後を見る。病人を包んでいたはずの布団がはだけられていた。起きても大丈夫なんですか、というアリスの問いかけは黙殺される。 呼ばれた妖精が幌の中に入ってきた。 『はいはい、何の用かしら』 「エポナと連携して、奴らを固定できるか」 『おやすい御用よ。昔、弟とよくやったイタズラだもの』 「やっぱりな」 二人にしか分からない会話を交わし、チャットが再び戦場に戻っていく。 続いて御者にも指示は飛んだ。 「馬車のスピードは落として、まっすぐ走ってくれ。ゴーマントラック内でけりを付ける」 クリミアは少年のただならぬ雰囲気を感じ取り、 「……わかったわ」 ロバに新たな指令を与えた。 上半身だけ起こし、リンクは冬空色の瞳を爛々と光らせる。まっすぐに語りかける相手は、現状でほぼ唯一の戦力であるゼロだった。 「戦意を喪失させるのが目的だろう。ならば、力で圧倒すればいい。どこでもいいから、怪我を負っても大事に至らない場所を叩くんだ」 「うん分かった。でも、足場が揺れてうまく狙いを定められないんだよ」 「そういう時は相手の位置を調整すればいい。こんな風にな」 エポナとチャットにより誘導された夜盗たちは、今や一本のライン上を走っていた。進路をギザギザにとっていたときよりも、抜群に的を絞りやすい。 魔法のように鮮やかな手腕。二言三言で、リンクはこちらに有利な情勢を作ってしまった。 迫る夜盗。形勢は変わらない。だが、背中には頼もしい少年がついている。ゼロの胸に、無限の自信がわいてきた。 「――今だ、打て!」 「はっ!」 放たれた矢は一筋の閃光となり、黒い覆面「だけ」を刺し貫いて虚空へ散らした。片一方の夜盗の素面が白日に晒される。 見覚えのある顔だった。ゼロの数少ないメモリーから、すぐに答えは見つかった。驚愕とともに。 「あれってまさか、ゴーマン兄弟!?」 彼はたじろいだが、リンクは眉一つとして動かさず、クリミアも無言だった。 「ど、どうして……」 つぶやいた刹那、馬車はゴーマントラックを抜けた。夜盗が歩みを止め、どんどん小さくなっていく。ゴーマン兄弟の、悪い夢を見ていたような表情が心に残った。 リンクが静かに尋ねる。 「何故あの一人を、しかも体ではなく覆面を狙った?」 「白い覆面の人は、もう片方より攻撃が甘かったんだよ。だから黒の、強そうな方を優先させた。そっか、黒っぽいのは朝の覆面とおそろいだったんだね。オレがとっちゃったから、もう一人は白いので代用していたんだ。 それに――うまく説明できないけど、あの黒い覆面には悪意みたいなモノが詰まってるんじゃないかって……感じたんだ」 一息で喋りきり、ゼロは乾ききった口唇を舐めた。 「覆面をかぶっているとは言え、一歩間違えれば脳天に突き刺さっていたぞ」 「自信、あったから。リンクのおかげだよ」 その台詞には嘘偽りなど何もない。正直な気持ちだった。ゼロは天真爛漫に笑う。 「悪意か。たぶん、それで正解だ」 『……?』 その呟きを聞き取れたのはアリスだけだった。 ←*|#→ (59/132) ←戻る |