* 「遅い」 足音だけでゼロの到着を察知し、少年は振り向いた。心臓のあたりを押さえながら判決を待っている青年に、手の中のものを渡す。赤く輝く小さな宝石が二つ。 「確か40ルピーだったな」 「へ、マップの代金ってこと? でも、さっきは盗んでなんかないって」 「気が変わったんだ」 春風のごとく軽やかに言い放ち、ゼロをレース場の端へ引っ張っていく。年下なのに、まるで逆らえる気がしなかった。 少年は冬空色の瞳を少しだけ細めた。待機させた子馬を遠目に眺めながら。 「リンク、だ。こっちの妖精がチャット、馬はエポナ。まず、駆けつけるのが遅れ、関係ないのに迷惑を被らせてしまったことを謝りたい」 素直に頭を下げるリンクに、ゼロは戸惑う。 「キミが謝ることじゃないよ。みんな無事だったんだからさ。ええと、オレはゼロで、彼女はアリス。よろしくね」 是非握手を交わしたかったが、差し出した手に応じるほどには心を許してくれていないのだろう。あえなく諦める。 リンクは話題を変え、ずばり核心を突いた。 「チンクルという奴からマップの話を聞いたのは、いつだ?」 「うっ……」 『それは……』 時間の感覚が完璧におかしくなっているせいで、ゼロは言葉に詰まった。「一昨日」(つまり前回の三日目)と答えては矛盾が生じる。「明日」ではもっとおかしい。痛いところをつかれて、アリスもフォローしかねていた。 値踏みするようなまなざしを送るリンク。 「答えられない、か」 チャットという名の妖精が痺れを切らし、チリンチリンと鈴のような音を響かせた。 『そんな回りくどい質問じゃ埒があかないわよ! はっきり言うわ。アンタたち、時間の繰り返しに気づいてるでしょう』 「!」 ゼロは瞬きするのを忘れた。心臓が早鐘のように高鳴る。 『やっぱりねえ』 「つ、つまり、リンクたちも?」 リンクは無言でうなずいた。 まさか、こんな超常現象に遭遇している仲間に出会えるとは。唐突すぎて、何から話せばいいのか分わからない。混乱したまま質問をぶつけてしまう。 「なんで……なぜオレたちだけが『このこと』を知ってるの?」 「それはこちらが聞きたいくらいだ」 考えあぐねた少年はふっと視線を外し――彼方を鋭く睨んだ。 「ちっ、やられたか!」 身を翻し、風のように駆けていく。何事だろうか。そういえば、レース場を囲む柵のあたりで草を食んでいた彼の愛馬が、どこにも見あたらなかった。 チャットは荒々しく嘆息する。 『取り戻した途端こうなるなんて、因果なものね……。 犯人はゴーマントラックの意地悪兄弟に違いないわ。昨日アイツが馬で競争して、こてんぱんにやっつけちゃったから、インネンつけられてるのよ。 ま、こっちの方が足速いし、すぐに捕まるわ』 茂みからぎゃっという叫び声が聞こえた。覆面をかぶった男がリンクに首根っこをつかまれ、引きずり出されてくる。 「エポナをどこにやった」 リンクは人も殺せそうな視線を突き刺し、低い声で凄んだ。ゴーマン兄弟と思しき人物はほとんど涙目だ。 「い、言うわけねえだろ!」 「そうか。なら言いたくなるようにしてやるよ」 と、実力行使に訴えようとしたリンクだが、抜きかけた背中のフェザーソードの柄をゼロに押さえこまれる。 「やめなよ。子供があんまりそう言うの振り回しちゃだめだ」 「……」 少年は己の頭が沸騰していたことを悟った。水を差されてむっとしたことは否定できないけれども。覆面を一瞥してから、男を解放した。 ゼロは少年と入れ替わり、 「リンクの馬をどこにやったんだ? 言わないならこの覆面とるよ」 そっぽを向く男。業を煮やした青年は手を伸ばす。男の顔を覆う、虚のような目を持つ覆面に触れた。 (!?) その瞬間、すべての感覚が消えた。まるで魂が体という殻を抜け出してしまったように。 不思議なことに、視覚だけは無事だった。目の前は白い闇。やがて景色が「蘇ってくる」。 『……初めまして。これからよろしくお願いします』 伏し目がちに頭を垂れた、痩身の女の子だ。月の光のように淡いプラチナブロンド、奇しくも瞳にはゼロとよく似た緋色の灯がともる。戸惑いながらも、差しのべられた手を握ろうとして―― 不意に五感が復活した。視界の半分を占める鉛色の空は、確かに直前までのドッグレース場のものだ。 (今のは、白昼夢って奴? あの子は誰なんだろう……) 彼はどうやら惚けていたらしい。はぎ取ったはずの覆面は消え失せ、尋問の最中だった男もいない。どれだけ時間が経ったのやら。首を傾けながら振り向く、と。 鈍い音、と共にやおらリンクの体が傾いでいくのが見えた。走り去る男の、目が覚めるようなオレンジのオーバーオールは――覆面はないが間違いなく先ほどの人物だ。その手に握られた石には、真新しい血がこびりついていた。まさか。 すべてがスローモーションに見えた。血の気が引いていく音すら聞こえそうな静寂の中、リンクの姿が牧草に沈んでいく。 「リンクーっ!」 伸ばした手は――届かない。 ←*|#→ (56/132) ←戻る |