2-6.亡霊 初めて雪を見たのは、二度目にして最後の「中庭」への侵入の時だった。 故郷において「冬」とは、木々が枯れすっかり森が禿げてしまった後に来る、ただ冷たい風の吹く時期だった。森を出て平原を越え、活火山の中まで体験した彼に、今「冬」という季節はベールを脱いで立ちはだかる。 冷たい白いものが「全て」に平等に降り注ぎ、層を成して積もっていく。その本当の姿を知った彼は言葉もなく立ちすくんでいた。幻想的で情緒溢れる光景だが、一年を通して温暖な気候しか知らない森育ちの彼には、初めて見た「雪」は白っぽいホコリとしか思えなかった。 「ねえ――、これ何?」 呆然として彼は問う。「彼女」の名を呼んで。 彼女――白い少女は微笑みながら答えた。彼がここに侵入する時は、まるで示し合わせたかのようにいつも中庭に居てくれた、彼女。 「雪ですよ。暖かいデスマウンテンに行っていたから季節感が湧かないのですね」 違う。雪なんて今まで見たことがなかったんだ。 喉元まで出かかった訂正の言葉を飲み下す。彼は共通点ともいえないような、二人の些細な類似点を思い出した。 白い壁の中しか知らない彼女、故郷の森しか知らなかった自分。 「雪の結晶って、見たことあります? インパに教えてもらったのですけれど」 彼女は寛容で、話の最中しょっちゅう注意が散漫になる彼のことも決して咎めない。そして、バラバラになった視線と人の心を集めるのは誰よりも上手だった。 「結晶って?」 「今見せて差し上げます。ええと」 少女はドレスの胸元についていた黒いツルツルした飾りを思いっきり引きちぎった。目をみはった彼が止める間もなく、その綺麗な石は小さな手におさめられる。 「インパさんに怒られるよ?」 「いいんですよ、代わりがありますから」 森では木の実の殻でさえ無駄にしたことがなかった、と自負している彼には、未だに彼女の浪費癖は馴染めない。拭いきれない違和感を素早く隠し、彼は覗きこんだ。 「見てください」 宝石は平べったく加工されていて、覗き込む二人の顔が小さく写りこんだ。その距離の近さにドキッとする。 白い雪が一粒、狙いすましたかのようにふわりと真ん中に乗った。 「目をこらしてみてください。不思議な形の結晶が見えるでしょう?」 え? と聞き返しそうになった一瞬後、彼は目を輝かせた。 「すごい……!」 キラキラした小さな粒は、紋章のように正確無比な点対称の形をしていた。例えるならば、雨粒を浴びた極小スケールの蜘蛛の巣のようだった。 彼は指でそっと触れてみた。たちまち結晶は溶けて水滴になってしまう。 「ああ」 「大丈夫です、まだまだたくさん降ってきますよ。ほら――」 「姫様! 外は冷えます、部屋にお帰りください」 壁に並んでいる窓のひとつから、鋭い声が飛んできた。少女はちえっと可愛らしく舌打ちをする。 「インパ、機を見計らっていましたね」 彼は傍らに置いていた剣を手に取った。もう潮時だ。 「じゃあ、俺はここで」 「必ず帰って来てくださいね」 それはいつも去り際に彼女が言う言葉だった。 「うん」 彼は何の気なしに返事した。すでに次の行き先のことで頭がいっぱいになっていた。「次にここに帰ってくるとき」がいつになるかなんて知るよしもなかった。 七年の歳月が過ぎてやっとここまでたどり着いた時、彼女はどこにもいなかった。 ←*|#→ (31/132) ←戻る |