2-4.フシギの森 フシギの森。その陰鬱とした場所の正式名は知らなかったが、ゼロは突入してすぐに変な場所だな、という印象を抱いた。 「なんか声がする」 例えるならば、アヒルの鳴き声だろうか。時折遠くから響く声は、欠けた記憶から引っ張り出してきたその音とよく似ていた。ぐえっ、ぐえっ、という喉につっかえたような濁った音。森の中にぽつんとアヒルなんかがいたら笑えるな。 すでにゼロは白いサルを見失っていた。興奮のままに道なき道を行き、高い草を踏み分けた彼は、いつの間にか足下に集中して地面ばかり見ていたのだ。 しかし、手がかりを失っても彼は焦らない。冷静だからでなく、単に呑気だからだ。 「ピクニックみたいだなー。じめじめしてるけど」 といった具合に能天気である。 もちろん、アリスのことを忘れたわけではない。一時は突然の喪失にパニックに陥ったが、そのうち彼女に対する妙な信頼感が湧いてきたのだ。「オレよりしっかり者だから大丈夫!」という全く確証のない考えだった。 「……んん?」 しかし、先ほどから感じるこの気配はなんだろうか。誰かがじっと息を潜めてこちらを伺っているような。ちらちらと木の葉が落とす影、あの木の向こうの暗がり。いつもは気にもとめない小さな闇なのに、そこに何かがいる気がする。 「気のせいだよね。ねえ?」 答える者はいない。いたら困るじゃん、と苦笑した。 「!」 ガサッと背後の草むらが揺れた。即座に剣を抜き構えるが、振り返った先には誰もいない。ごくりと唾を飲む音が予想外に響いた。 嫌な感じが背中を駆け抜ける。こんな気味の悪いところ早いところ抜け出そう、と足を踏み出したとき、不意に耳に入った嗄れた声が後ろ髪を引いた。はっとして夢中で草をかき分けると、額に赤い宝石を飾った白髪の老婆がぐったりと倒れていた。その小さな手が伸びる。 「誰かおるのか? お、お助けを……」 ぎょっとして、ゼロは足に触れそうだった老婆の枯れた手を振り払ってしまう。とたんに老婆は恨み言をわめき、じたばた暴れ始めた。 「ひどいぃ〜。か弱いおババに何をするのじゃあ」 「ご、ごめんなさいっ! 足が悪いんですか、おぶりましょうか」 「なんと話が分かる若者じゃ。では遠慮なく」 と言った次の瞬間に、ドサッと音がしてゼロは背中に老婆を負ぶさっていた。見かけのわりになかなかの重量。 あれ、いつの間に? 「ワシはコウメさんじゃ。これでも魔女じゃ。ああ、ホウキがその辺に落ちているはずじゃから探してくれないかのう」 名前で気がついた。このおばあさんは、沼の観光ガイドで聞いた、ボートクルーズの案内役だ。こんなところで発見できるとは思わぬ幸運だ。 「オレ、実は道に迷ってたんです。案内を任せてもいいですか?」 「お安いご用じゃ」 コウメはゼロの肩から身を乗り出し、行くべき道を指し示す。何故か一度首を絞められる格好になった。ぐえっと漏れた声は、図らずもあの妙な鳴き声に似ていた。すぐ力を緩めてくれたが。 「お主は、何の用でこのような場所に?」 「白いサルに友達の妖精が拐われたみたいなんです。追いかけてきたけど見失っちゃって……」 「ははあ、この辺を縄張りにしているイタズラザルの仕業じゃな。よく近くのデクナッツの城に遊びに行っておる。ワシのボートクルーズで行くとええ。お主は命の恩人じゃからの、タダにしとくぞ」 「ありがとうございます! あ、オレはゼロって言います。コウメさんこそ、どうしてここに?」 「ワシは魔法のキノコを採りに来たんじゃ。目眩、動悸、息切れ、腰痛、肩凝り、影が薄くなる病気、悪どい性格などなどによ〜く効く、青いクスリの材料になるんじゃ」 症状の後半は嘘が混ざっていたような気がするのだが……。 そういえば、ガイドさんはコウメの双子のお姉さんがクスリ屋をやっていると言っていた。その手伝いでキノコ狩りに来たはいいが―― 「スタルキッドの悪ガキめに後ろからポカッとやられたんじゃ。日頃からかっていたバツかのう」 ゼロの目付きが鋭くなる。またもや聞き覚えのある名前だ。 (スタルキッド……海の大妖精様をバラバラにしたやつだ) 「そのスタルキッドとかいう奴、様子が変じゃありませんでしたか」 「言われてみれば、おかしな仮面をつけてやけに自信満々じゃった。臆病者の小僧には珍しくの」 彼の長い耳がピクピク動く。どの証言も大妖精の言葉と一致していた。考え事に没頭しかけると、すかさずコウメがびーっとゼロの耳をつねった。 「これ、ちゃんと前を向いて歩かんか! それにホウキはどうしたのじゃ。早うせい」 「いたた……分かってますってば。ちゃんと探してますから!」 引っ張られた耳がじんじん熱を持ってくるのを感じながら、ゼロは疲れた足に鞭打って森の中を歩いた。 ←*|#→ (24/132) ←戻る |