* その建物は水の上にあった。一階部分は土台として足場が組まれ、ボート乗り場になっている。観光ガイドはそこから梯子を上った二階部分だ。 「……ったく! あのドラ息子、またどこかでさぼってやがるな。いいトシこいて、妖精ゴッコもないもんだ……!」 左手からやたらと耳に響く声がした。独り言のようだが、それにしてはずいぶん大きな声だ。ゼロが扉をくぐったことに気がついたその人物は、ひときわ声を張り上げた。 「アッ! いらっしゃい!」 ガイドであろう、毛むくじゃらの人がぬっと頭を出した。マニ屋の店主みたいな黒い眼鏡を鼻の上にのっけて、はち切れんばかりの小さなジャケットを着込んでいる。体格が良すぎて、こぢんまりとした案内カウンターでは窮屈そうだ。 「ここの地図ありますか? できるだけ詳しいのがいいんですけど」 「はいはい。ただいま」 みしみしと嫌な音をたてて、大男のガイドさんは奥の扉に引っ込んだ。 自然とゼロの紅茶色の瞳は、壁いっぱいに飾られた、たくさんの白黒の小さな四角い絵に惹き付けられた。 「アリス、これはなんていう絵かな?」 いや、もはやこれは絵とは呼べないだろう。 描かれている場面は沼地ばかりだが、そのどれもがまるで本物の風景を写し取ったかのようにリアルなのだ。特に、遠景に光射す滝と虹、手前に樹――しかも葉の一枚一枚まで描いた精巧な――を配した一品は、絵の良し悪しなんてちっとも分からないゼロをさえ唸らせるような出来映えだった。 『ああ、それは確か』 「その写し絵が前回のグランプリ。綺麗だよねえ。あの腕でアマなんて信じらんないでしょう?」 ビリビリと空気が震える。ガイドさんが地図を片手に戻ってきたのだ。 アリスがこっそり話の続きを耳打ちする。 『あれは写し絵といって、目に写るものをそのまま紙の上に抜き取る技術なんです』 「え、なにそれ、魔法?」 「お客さん、写し絵知らないの?」 ガイドさんは眼鏡の奥で目を丸くした。がさごそとカウンターの裏を探る。 「これが『写し絵の箱』。試しに撮ってみます?」 と、いきなりレトロな色合いの平行六面体を渡された。 初めて見るゼロには、なんとも形容し難い形だった。名前の通り一見箱の様だが、見た目に反してずっしり重い。一部がぴょこっと突起していたり、丸いガラスがはまっていたりする。彼には使用用途がさっぱりわからなかった。 戸惑う彼に、剛毛の生い茂る太い手が伸びてきて『写し絵の箱』を奪った。そのまま箱を顔の前に持って行く。 「あのね、こうやって、構えて、 ――撮る!」 カシャッという歯切れのいい音と同時に、網膜を焼く白い閃光が走った。ゼロは仰天した。 「え、い、今のは!?」 「しばらくしたら現像出来るよ。まあ地図でも見て待っててくだせぇ」 再びガイドさんは奥へと消えた。狐につままれた気分で折りたたまれた地図を手にとる。 「アリスは写し絵って、知ってた?」 『ちょっと聞きかじったくらいです。本物は初めて見ました』 パンフレットが積んである丸テーブルに移動し、バサッと地図を広げた。 随分詳細な地図だった。写し絵に負けず劣らずびっしりと描き込まれているが、ところどころの強調で分かりにくくはない。しかも注釈をつけてさらに補足説明している。まさに「歩くこと」を想定して描かれた地図だ。 「沼の妖精の泉へは……ボートクルーズで行くのがいいのかな」 感心しながら指で辿る。地図を読むのが下手なゼロでもすぐに分かった。 『それなら、そこにクルーズの受付窓口がありますよ』 言われて振り向く。しかし四角く切り抜かれた窓は閉まり、『休業中』との貼り紙がある。 「あれ、おやすみなのかな……?」 「お客さーん、できたよ写し絵」 ぴらり。差し出された紙切れを覗き込む。そこには目を真ん丸くしたゼロと控えめに飛ぶアリスが色を抜かれて写っていた。 鏡像とは左右反対の、「他人から見た自分」がそこにいた。 「す、すごい……!」 「興味あるならコンテストに参加する? 今ならタダだけど」 『コンテストとは?』 未だにすごいすごいと感動中のゼロの代わりに、アリスが尋ねた。ガイドさんはこほん、と咳払いをし、突然流暢にしゃべり出した。 「え〜、沼の観光ガイドではただいま写し絵コンテストを開催しております。子供からお年寄りまで参加は自由。この沼で撮ったナイスな写し絵には賞金か、ボートクルーズの無料サービスをプレゼント! でも、こいつに参加するには、まずは、ボートクルーズに乗らなきゃダメだぜ。ボートクルーズの受付はそこの窓口だ。興味あったら乗ってみなよ」 と、ここまで一息である。二人は拍手した。 照れくさそうに笑い、ガイドさんはこう付け加える。 「いい出来のはパンフレットの写真に使わせてもらうんだ。変な経費がかからなくていいから」 なるほど、とゼロはうなずいた。ついでに、先ほどの地図を取り出す。 「あ、この地図ありがとうございます。すごく詳しくて助かりました」 そう言うと、ガイドさんはぶわっと顔全体を紅潮させた。まるでまだ青い林檎が一気に熟したようだった。 「……へ、へへ、そうかい? 実はオレの息子が描いたんでさぁ」 「本当ですか!?」 『素晴らしいです!』 人のいい二人が寄ってたかって誉め殺す。 あれ? でもさっきは息子さんのこと愚痴ってたような……。 疑問を抱くゼロを尻目に、アリスは賛辞を送り続ける。しかし、次の彼女の言葉に空気が凍った。 『さぞご自慢の息子さんなんでしょうね』 瞬間、ガイドさんの表情が抜け落ちた。ついでに顔色も潮が引くように元に戻った。 あまりの変化に二人は絶句し、裏でコソコソ会話する。 『な、何かお気に障るようなことを言ってしまったのでしょうか……?』 「でも、ちょっと前まであれだけ喜んでたのに。変だよ。 あのー、どうしたんですか?」 言葉の後半はガイドさんに宛てられたものだ。 しばしの放心状態から解放されたガイドさんのつぶらな瞳に光が戻る。 「ああ、すいやせん。気にしないでください。 お客さん、旅人ですか? どこかで息子と会うようなことがあれば、感想のひとつでも言ってやってください」 「あ、はい。そうします」 内心話題の終わりにほっとしつつ、さらにゼロは質問を重ねた。 「ボートクルーズに乗りたいんですけど、今日はおやすみですか?」 「ああ、コウメっていうバアサンが受付やってるんですがね、いつもオレより早く出勤するのに今日は来なかったんです。こちらも持ち場離れる訳にはいかないし……」 ぼやくガイドさん。ちらり、とゼロはアリスを見る。とびきりの笑顔で。仕方ないですね、といった風に妖精は嘆息した。 無言での交渉が成立した。意気込んで彼は宣言する。 「じゃあ、オレが呼んできます!」 「本当か? 悪いですねえ……バアサンの家はここから西です。双子の姉妹が沼の奥で『魔法オババのクスリ屋』ってのやってるんで、そっちに訊いたら分かるかと」 「わかりました!」 威勢よく返事して、ゼロは地図と、写し絵の箱と、ついでに抜け目なくパンフレットを手にとり、ドアノブに手をかけた。すんでの所で待ったがかけられる。 「ちょっとちょっと! それはオレの持ち物で、こっちが貸し出し用の写し絵の箱です!」 ちゃんとコンテスト用にもあったらしい。すみません、と笑って彼は箱を差し出す。 新たな箱を受け取り、ゼロは眩しい世界へ飛び出した。訳ありと見えるガイドさんの息子のことを考えながら。 ←*|#→ (22/132) ←戻る |