月と星






「どういうことかな? まさか『あれ』って夢だったの?」

 ゼロは閑散とした食堂で遅すぎる朝食を食べていた。やはり三日前のメニューと同じだった。おいしいが、前回よりは感動が少ない。

『いえ。おそらく、時間が巻き戻ったのです』
「へえー。……えっ!?」

 危うく彼は椅子からずり落ちるところだった。冗談かな、と笑いかけても、アリスは何も言わない。
 ゼロは急に気まずくなり、小さくちぎったパンをミルクで飲み下す。

「あのー、時間ってさ、時計の針を戻すみたいに簡単に戻るものなの?」
『そんな訳はありませんが、ほら、月が落ちる前に笛の音が聞こえませんでしたか?』
「笛の? ……ああ!」

 うんうんと何度も頷いた。パニックによって目の前が白くなる直前、うっすらと聞こえたあの音色。

「確かに聞こえた! 時計塔の鐘の音でもなかったね」
『ええ。あれは時を巻き戻す音色だと思います……いえ、前にそう聞きました』
 彼は首をかしげる。「前に」? ということは、もしや……。
「アリス、記憶が戻ったの!?」
『はい。少しだけですが』

 はにかむようにアリスは光をより青くする。
 対してゼロはがっくりうなだれた。

「う、うそ……。オレまだ何にも……」

 正直すぎる反応に、アリスは苦笑して笑みの代わりに光をこぼす。

『ま、まあ記憶はゆっくりと取り戻していきましょう。それで、時が戻ったことについてですが』
「あ、そうだよ。仮に巻き戻ったとしてもさ、なんでオレたちは昨日――のことを覚えていて、アンジュさんは違うの?」

 アリスは間髪入れずに答えた。

『それはまだわかりません』

 彼はサイドボードについていた手をずるっと滑らせた。

「……そう。あれ、これってさ、オレたちが時を飛び越えて三日前のクロックタウンに戻ってきたわけではないの?」
『そういう効力のある音色とは聞いていませんが……』
「じゃあ町ごと、いやタルミナごと三日前にジャンプしたんだ」

 アリスの前では納得したような感嘆をもらして見せたが、ゼロは正直まだ半信半疑だった。時を自在に操ることなんて、大妖精レベルの魔法使いにも不可能である。それこそ神様か――。

『神に愛された誰かさんの仕業かもしれませんね』

 まるで彼の心を読んだように、アリスが言葉を繋いだ。びっくりするほど冷めた口調だった。ゼロは目を丸くする。

「その誰かって、なんで時を戻したのかな?」
『それは……。月が落ちないように、でしょう』
「一時しのぎでしかないじゃん。ということは」
『誰か――他の人が月を何とかしてくれるのを待っているか』

 彼の言わんとしていることを悟ったアリスは、思案を表す透明な青い光を放つ。

「自分で何とかしようと時間を稼いでいるか、だね」





 ごちそうさま、と調理場に向かって叫ぶと、アンジュの母親の嬉しそうな声が返ってきた。

「さあて、これからどうしようか。また海の大妖精様バラバラになってるかな」

 ゼロは力無く笑った。また同じことをやるのは勘弁だ。

『そんなはずはありません。海はきちんと力が回っています』
「分かるの?」
『ええ。ただ、他の三方は……』

 アリスはうつむいた。何となく予想していたゼロはうなずく。
 そして、手近にあった新聞を手にとり、ぱらっと流し読みをした。

「記事もやっぱり変わってないね」

 と言いつつも、気になってちらちらと目を通した。ふと、ある記事に目が止まった。

「あ、これは……?」

 タルミナの新聞にはクロックタウンの近況だけでなく、沼・山・海・谷――四方の情報も載っている。山にはもう夏も近いというのに豪雪が降り積もり、海は水温が上昇して魚が取れなくなり、谷は怪しい暗雲に覆われ……。明るい話題は皆無だ。

 そんな紙面の中でゼロが気になったのは、沼のニュースだった。

「アリス、こんな記事って前あったかな」

 ちょいちょいと示す部分に青い光が吸い寄せられる。
 それは「毒沼、浄化される」という見出しの記事だった。

『一ヶ月ほど前から沼の上流、ウッドフォールの神殿から流れ出ていた謎の毒水。さらに原因不明だが、ごく最近沼はいつもの美しい水に戻った』

 二人は顔を見合わせた。

『……これは、どういうことでしょうか』

 ゼロは文字を指で辿りながら、相づちを打つ。

「そうそう、変でしょ。前読んだときは真逆の内容だった気がするんだ」

 二人は、意味ありげな視線を交わす。

『まさか』

 時の謎と沼の謎が繋がった。時を戻し、沼を浄化する。繰り返す時の外側にいる人物が、見えてきた。

「行ってみようよ、沼へ。『誰かさん』が時にイタズラしたのかもしれないよ」

 紅茶色の目を燦々と輝かせ、ゼロは町の東――タルミナ平原を越えた先にある「沼」を夢見ていた。





 ミルク色の霧が地上から天までを支配する『一日目』のタルミナ平原、北。

『やーねえ。羽が湿って飛びにくいわ』

 暗い空を鈍い光がすぅっと横切る。妖精チャットだ。
 彼女は黙々と歩む連れを見て、感心したような呆れたような声を漏らした。

『こんなに視界悪くて、よくまっすぐ歩けるわね。ちゃんと山に向かってるの?』
「……間違いない」

 目を合わせずにリンクが即答する。チャットは嘆息した。一体どこからその自信は湧いてくるの、と言外に滲ませて。

 その時、油断なく光る少年の視線の先を何か、白いものが過ぎった。チャットの羽からこぼれる光の鱗粉だろうか? いや、違う。リンクの外套から露出した肌に触れて、それは冷たい雫になった。

「雪……?」

 驚いて空を見る。びゅう、と突風が空を駆け、濃霧と暗雲をつかの間吹き飛ばした。

 切れ目から覗いた青い空。その裾には、万年雪の上に、さらにぶ厚く雪化粧した霊峰――スノーヘッドがそびえ立っていた。


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