* 緑衣の少年は多少不満を感じつつも、妖精について行こうとした。しかし、北門に爪先を向けた途端、背中がざわ、と粟立った。立ち止まり、首を振る。 「……?」 何か、嫌な予感がした。背中から、つまり反対方向か。彼はくるりと振り向いた。 一見いつもと変わったところはないようだが、視界の端に気になる人影があった。背の高い少女のようだ。これまでかれこれ六日間ものあいだクロックタウンに出入りしているのに、一度も見たことがない。 蜂蜜色のポニーテールを揺らし、ただ一心に自分の前方の石畳を見つめながら歩き続けている。それだけなら普通なのだが、瞳には意志が全く感じられないし、急いでいるようなのに足取りはたどたどしい。おまけに他人とぶつかってもお構いなしだ。その様子はまるで何かに憑かれているようで、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。……明らかに、尋常ではない。彼女が歩いた道だけ暗く重く沈んでいるようだ、と少年は思った。 今や、誰もが少女に釘付けになっている。気づかないのは、彼女だけ。 ……いや、違う、一人だけではない。彼女の前方で仕事をしている大工らもそうだ。少年は彼らに少女の接近を知らせようか迷った。 (しかし、彼女が何をするというわけでもないか) 自分に言い聞かせるように、少年は首を振った。そろそろ妖精もカンカンになって怒っている頃合いだ、すぐにこの場を立ち去ろう。そう思った時、目の端に捉えた光景を、バイト君の手から離れ少女の頭にまっすぐ吸い込まれていく大きな木材を見て、無意識に走り出していた。 クロックタウンは坂の町だ。西区はスロープを階段状に整備してその一段一段に露店を並べており、今いる中央地区は時計塔の脇に階段が設けられ、広場が高低二段に分かれている。少年は一度の跳躍で最上段から飛び降り、まばたきするほどの時間で(少なくともその場にいた見物人はそう語る)少女のもとにたどり着いた。 「手を!」 「え?」 刹那のやり取りだった。彼女が差し出した手を左手でとり、少年は思いきり引いた。二人の立ち位置が入れ替わった。同時に右手で背中の盾を構える。ついに地面に到達した木材に追突しそうになり、ブーツの底でブレーキをかけた。遅れて降ってきた最後の木材に盾がもろに当たり、右腕がじんと痺れた。大きな盾の影で少年の顔が歪む。 「ち、ちょっと大丈夫? 怪我はないのん?」 大工が腰を強調するような動きで近づいてきた。少年は盾を下ろし、やっと一息ついて未だ手を繋いだままの少女を見た。 彼女はショックからか元からか、尻餅をついて放心状態だ。ぼんやりと開いている目は少年を通り越して、昨日の空でも映しているのだろうか。しかし何気なくその瞳を覗き込んだ時、危うく彼はあっと声を上げるところだった。 少女は美しかった。紫がかったアクアマリンの瞳は光を失ってもなお燦然と得難い魅力を放ち、ろくに梳いていない髪でさえ光に透かした蜂蜜の色に眩しく輝く。白昼夢に見た白い衣の少女に、どことなく似ていた。 彼ははっと気づいた。彼が握る少女の手首は思ったよりしっかりしていた。肌も病人のごとく白いのかと思いきや、軽く炒った小麦粉のように実に健康的な色だ。 違和感を感じた。遠目ではあれほどおかしな空気を纏っていたのに、手が届く距離で改めて見るとこんなにも普通の人だ。この落差はいったい何なのだろう。 彼が考えに耽っていると、掴んだままの手首が揺れた。少女は起き上がった。鈍くて小さいが、目には明らかに意思の光が宿っている。やっと状況がのみこめたらしい。 しかし、おずおずと彼女が絞り出した声は見当外れな言葉を紡ぐ。 「……おはよう」 少年も、彼の側で心配そうに見守っていた大工も、観衆も皆が皆呆気に取られた。中心にいる少女はきょとんとした顔で見回す。 やがて、安全が確認されて緊張の糸が切れたのか、潮が引くように群衆はひとり、またひとりと各々の用事に帰っていった。大工もバイト君に頭を下げさせると、脱兎のごとくその場を抜け出して仕事に戻った。緑衣の少年は、鋭い目でそれらを見送る。 あらかた人が見えなくなったところで、少年は少女に向き合った。面と向かうと彼女の背の高さがより目立つ。 「怪我はなかったか」 「怪我? 大丈夫だよ」 少女は笑みを見せた。どこか寂しい、儚い微笑みだ。 なんだ、話せば普通じゃないか。内心少年はほっと胸を撫で下ろす。 ポニーテールをゆらゆらと動かしながら、少女が問いかける。 「キミのお名前を教えてくれるかな?」 関われば関わるほどに、彼女はより白昼夢の少女を思わせた。雰囲気や容姿だけではなく、声も似ているのかもしれない。 少年は、自らの名前を躊躇せず答えた。 「リンク」 それが緑衣の少年の名前だった。 「リンク、勇ましい名前だね。どこへ行くの?」 「北の――山」 リンクは自分でも不思議なほど素直に質問に答えていた。知らない人物ほど、いつもは警戒を強めているはずなのに……。 山、と聞いて少女は自分の着ていた、白地に桃色の刺繍も愛らしい外套を差し出した。 「山は冬なんだって。その格好じゃあ寒くて凍えちゃうよ」 冬? クロックタウンは既に夏も近いというのに? 疑問は次々と浮かぶが、リンクは黙ってそれを受け取った。厚手の生地で、見た目の可愛らしさとは裏腹に旅人用の頑丈な作りだ。なぜ、このような服を持っているのだろう。 しかし彼はその疑問も押し殺した。精一杯声を和らげる。 「ありがとう。後で返しに来る」 「分かった」 リンクは正直もう少し話していたかった。だが、あの妖精――チャットは、怒らせるとかなりうるさい。 去り際に、彼はどうしても知りたいことを尋ねた。 「名前、は?」 不安定で、壊れやすい一人の少女の名を。 「――ルミナ」 ←*|#→ (18/132) ←戻る |