月と星






 いまだに頭はもやもやしているが、なんとかナベかま亭の玄関前まで辿り着いた。ゼロは身心両方を落ち着かせようと、扉に手をかけたて深呼吸する。頭に浮かぶのは向日葵色のポニーテールと、輝くような少女の笑み。

『ゼロさん、お気になさらないでください。これだけの非常事態なんです、理解しきれない、いや理解したくない方もいらっしゃいます』
「うん……一応分かってるつもり。ああいう人もいるんだよね。ちょっとショックだったから」

 無理に微笑んでみせると、ずっと後を引く衝撃を振りきるためにも一気に扉を開け放つ。

「こんにちはー……」

 真っ先にフロントを確認するが、カウンター内には誰もいない。

『さすがに臨時休業でしょうか』
「それだったら玄関に張り紙があるはずだよ。アンジュさんなら絶対そうする」

 むしろ自分に言い聞かせるように、ゼロは断言した。その姿に、密かにアリスは嘆息する。彼は気づかず心配そうに視線を泳がせた。

「行方不明の人には会えたのかな……」
『ゼロさん、物音がします』

 ささやくようなアリスの声にはっとし、ゼロは目を閉じ耳を澄ませた。

 ――これは、二階から?

「ほんとだ。誰かの話し声みたい」
『行ってみましょう』

 先を行く(もちろん階段の上を飛んでいく)アリスについていきつつ、段々近づいてくる声が気になった。語気が荒い。言い争いだろうか?

「片方は女将さんかな」

 ここの経営者であり、アンジュの母親だ。ゼロは一昨日に目覚めてから初めて食べた、びっくりするほど美味しい食事を思い描いた。あれが彼女作だった。

 西地区のパン屋で仕入れているという、焼きたてカリカリのクロワッサン。脂は控え目のベーコンと新鮮なレタス。トマトの透明な赤。ああ今喉渇いてたんだった、と今更後悔しても遅い。ゼロはつかの間幸せな想像に浸った。実際一ヶ月ぶりの能動的な食事だったので、たとえ猫の餌でも美味しくいただけたのだろうが……。

 あの食事を出してくれた時、アンジュは自分の料理の腕について女将さんと何か談笑していた。その時は「ああ、仲の良い親子だな」と思ったのだけれど。

 声がどんどん大きくなってくる。もはや間違いようがない、一方的に怒鳴りつけている声は母親、弱々しく抗弁している声はアンジュだ。

 ――だめだ、どうしても気になる。ゼロは耳を傾けざるをえなかった。





 アンジュには分かっていた。おとなしく母の言うことに従い、友人の経営する牧場に避難するのが最良の選択だということが。
 だが、彼女は待たなければならない。彼が、カーフェイが『迎えにくる』と手紙を寄越したのだ。

「お母さん」

 ぎゅっと握りしめた手紙に、大粒の涙が一滴こぼれおちた。
 母親ははっとし、切れ目なく紡いでいた言葉がぷつっよ途切れる。

「あ、アンジュ……」

 アンジュにだって、娘を想ってくれる母の気持ちは、痛いほどよく分かる。大切な人の安全を願う気持ちは。
 彼女は静かに決意を固めた。

「分かった。お母さんは先に行って。六時の鐘が鳴るまで待ったら、必ず行くから」

 だから、しばらく一人にさせて。
 暗にそう言って、アンジュは顔を伏せた。





 ばたん! 勢いよく開いた扉に、ゼロの心臓は飛び跳ねた。さらに扉を開けた人物――アンジュの母親に真正面から向き合ってしまい、心臓は跳ねたまま凍りついた。ストレートにぶつかる怪訝そうな視線。

「あ……えーっと、忘れ物しちゃって」
『急いで取りに来たんですよ』

 見かねたアリスがフォローしてくれたおかげで、なんとか誤魔化せた、と思いたかった。
 案の定母親は不審そうな顔をしていたが、無言で通り過ぎてくれた。二人はおそるおそる部屋をのぞき込む。

「アンジュ、さん……?」

 部屋の奥に向かって、そこにいるはずの人物に声をかける。ゼロには人影くらいしか見えない。何しろ太陽の白い光は月のもたらす赤い光にとって代わられてしまったので、明かりも灯っていない室内は暗すぎるのだ。

 正直いって、ゼロは喧嘩の内容をほとんど聞き取れなかった。元々小さいアンジュの声は、ゼロが近くに来ると余計に細くなり、さらには扉越しなので不明瞭だった。だから二人に何があったのか、よく分かっていない。

『ゼロさん』

 咎めるようなアリスの声が聞こえていないのか、ゼロは一歩、また一歩と踏み出す。その表情は読めない。

 ――と、かすかなすすり泣きが聞こえた。彼の足はそこで止まった。
 足元に紙切れが落ちている。反射的に拾い上げ、アリスの光に照らして読む。

『アンジュへ
 心配かけてごめん。でも必ずカーニバルには太陽のお面を持って、君のところに迎えに行くよ。
 カーフェイより』

 所々の滲んで読めない文字を補うと、このような内容だった。

「……アンジュさん」

 改めて部屋の中を見回す。赤い闇にぼんやりと浮かび上がる、純白のドレス。それが婚礼の衣装だということは、ゼロにもすぐに分かった。
 そして、ベッドに腰かけて泣いているアンジュの小さな背中を見た。

「オレにできることってなにもないのかな。アリス、どうやったら月が止められる?」

 返事はなかった。

 閉めきった窓から、午後六時を告げる鐘のくぐもった音が聞こえる。

 それに重なるように、不思議な旋律が響いた。単調だが、一度聞いただけでも鮮烈な印象を残すであろう曲。それを演奏している笛の音は、壁も窓も無視して、ゼロの元まで届いた。

 あれ、と疑問を感じた時には遅かった。ゼロは真っ白な光の奔流に呑み込まれた。部屋はいつの間にか消滅し、果てしなく広い白の空間をゼロは落下していった。大分上の方に、かろうじてアリスの姿も見える。

 頭の中をこの三日間に出会った人々が、景色が流れていく。

 逆流していく『時』に耐えられなくなったゼロは、そこで気を失った。


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