1-9.最期の日 クロックタウン唯一の宿屋『ナベかま亭』。その二階に「関係者以外立ち入り禁止」の張り紙がある扉が存在する。従業員一家の寝室だ。 その部屋で、ベッドに腰かけている女性が一人。看板娘のアンジュである。 頬にかかる亜麻色の髪を無意識に掻き揚げ、彼女は幾度となく読み返した手紙を開いた。既に紙はよれよれになってしまっている。 『アンジュへ 心配かけてごめん。でも必ずカーニバルには太陽のお面を持って、君のところに迎えに行くよ。 カーフェイより』 一昨日にこの手紙をポストマンから受け取った時は、フロント勤務中にも関わらず、すぐさま開封してしまった。だが期待に反して、中身はたったの数行……。 彼らしいといえばそうなのだ。しかし、アンジュが求めていたものとは違った。 手紙よりも何よりも、カーフェイ、私は今あなたにそばに居てほしいのに。 熱い液体が頬をつたう。うなだれたアンジュからは見えない窓の外では、顔のある月が刻一刻と町へ近づいていた。 * 「町の人はほとんど避難したんだね」 クロックタウンの中央広場。 一昨日はあれだけの人が往来していたのに、今日は人気が全くない。 ゼロは肩で息をしながら早足で歩いた。平原を全速力でやって来たのだ。疲れながらも気が急いて、目をきょろきょろさせている。 「バイセンさんには会いたくないな……。見つかったらなんて言われるか」 『避難する人の護衛をしていらっしゃるとは思いますが』 そうだったら有難い。今は一身上の心配より、もっと大きな心配事が頭上にぽっかり浮かんでいるのだ。とにもかくにも行動してみなければ、ここまで来た成果がない。 ゼロがもっぱら気になっているのは、この短い日々で知り合った人々の安否だった。 「アンジュさんはどうしてるだろ」 知り合い、で真っ先に思いつくのはやはり彼女だ。ゼロの足も自然とナベかま亭の方へ向かった。 * クロックタウンに唯一の宿は記憶と同じ位置に同じ様子で建っていた。わけもなくゼロはほっとする。 そのまま一気に駆け込もうとすると、 「そこのお兄さん、一杯飲まない?」 場違いに陽気な声がした。ぎょっとして振り向くと、そこには女の子が立っていた。 すらりと背は高く、向日葵色のポニーテール。視線に気づくと、彼女は紫がかった青の瞳を明るく輝かせ、形のいい唇でにっこり微笑んだ。つられてゼロも破顔してしまう。 「あ……オレのことだよね?」 「そう、そこの『ラッテ』ってお店なんだけど。あ、変な勧誘とかじゃないからね」 「お酒?」 「ううん、『シャトー・ロマーニ』っていうとおーっても美味しいミルクなんだけど」 ミルク。思わずごくりと喉が鳴る。そういえば海からこちらまで走りっぱなし、喉はからからだった。一も二もなく承諾しかける――が。 『ゼロさん! こんな時にそれは』 「あ、ごめん、つい……。 あれ? よくオレの考えていることが分かったね」 『分かりやすいですから』 アリスの答えにはいまいち釈然としなかったが、とにもかくにもゼロは少女に頭を下げる。 「ごめん、行きたいのは山々なんだけど」 「いいよ、一人で飲むから。また今度ね」 「……今度?」 不意にゼロは覚醒した。少女に詰め寄り、一気にまくし立てる。 「今度って……月が落ちるんだよ? そうだ、キミは何で逃げないの!?」 「月? 月がどうかしたの?」 少女はきょとんとしている。唇は綺麗な微笑みの曲線を描いたままだ。 その反応見てゼロは目を丸くし、次いで絶句した。よく理解できなかった。少女の言っていることが。 「また会えるといいね。またね」 少女は完全に動作の止まってしまったゼロに構わず、踊るようなステップで去っていった。 最後まで笑顔のまま。 ←*|#→ (15/132) ←戻る |