* 「え、何? ベーシストのジャパスに会いたいって? ダメだよ、一般人は立ち入り禁止なんだ」 ぴしゃり、と突き放されてしまう。既にこのような対応をされるのは二回目であるので、押しても引いても無理と見て素直に引き下がった。 『先ほどのリハーサル会場といい、結構厳しいんですね』 「うーん……でもこのまま部屋に帰ったんじゃ、もったいない。まだまだ諦めないぞ」 軽く拳を握ったゼロは、再び前を向いて歩き出した。 ――と。 『誰か出てきます』 ゼロが次の目標と定めた扉が内側から開かれた。ちらりと薄水色のヒレのついた手が見える。またとないチャンスと見てゼロは駆けよった。 「こんばんは! もしかしてドラムのディジョさんですか?」 扉から出てきたのは、一般的に痩身な他のゾーラ族に比べて水平方向に大きく、その分垂直方向に圧縮されたような人だった。……控えめに表現すると、だ。 既にポスターで姿を見知っていたゼロは、これ幸いと偶然をよそおった。今にもディジョの手を取り踊り出さんばかりの熱意を瞳に宿し、ずいずい近づいていく。演技も多少入っているが、半ば本気だった。呆れたアリスは言葉もない。 「オレ、ファンなんです!」 「そうか、それは嬉しいんだな。でも、サインはマネージャーを通してからもらってねぇ」 のんびりした外見のわりに、この人物、なかなか手強い。ゼロは彼の評価を改めた。そして、そのままふっと行かれそうになるのを、さりげなく立ち位置をずらして阻止する。 ディジョと向かい合った顔はにこやかだったが、紅茶色の瞳は笑っていない。 「サインのことはわかりました。ギタリストのミカウさんの部屋ってどこですか?」 「ミカウはボクと同じ部屋だけど……ここ数日見かけてないんだな」 「え?」 苦し紛れの質問が思わぬ波紋を呼び、さらに返事の内容にゼロは驚いた。 「カーニバルがあるのに、ですか?」 「そうなんだなあ。たぶん、どこかにこもって一日中練習してるんだろうけど。 ルルとも恋人同士なのに全然会ってないみたいで、可哀想に、最近彼女寂しそうに海ばっかり見てるし……」 唐突に始まった愚痴にゼロが一言も発せずにいると、ディジョは我に返ってゼロを押し退けた。 「悪かったんだな、ちょっと喋り過ぎたんだな」 「あ、いえ、こちらこそ……ありがとうございました」 何とも気まずい空気。そそくさと去っていくディジョの背中を、ゼロはアリスに声をかけられるまで、ぼんやりと見つめていた。 * 夜の海は昼間とは違い、それ自体が大きな魔物みたいに黒々とのたうっている。結局あれから雨が降ることはなかったらしく、空は満天の星空だった。 その完璧と呼べるであろう天空の中に、ライトアップされたかのように夜空にぽっかりと浮かび上がる、あの顔をもつ月。それはいっそう際だって不気味さを醸し出していた。 「あの月、やっぱり近づいてるよね」 ゼロは外の空気が吸いたい、とゾーラホールから一旦近くの岩場まで出てきていた。無論、安全のために愛用の剣を持って。 『確かに方角的にも町を向いている気がします』 アリスも神妙に頷く。そしていつもよりあたたかい空色の光を発して、彼に寄り添う。 『ゼロさん……大丈夫ですか? 疲れましたか』 「うん、ありがとう。なんか頭がぼんやりしてさ」 ああ、ルルとミカウのことだな、とアリスは即座に見当をつけた。人のいいゼロのことだ、話を聞いて申し訳なく思っているに違いない。ナベかま亭の娘、アンジュの待ち人の話にも重ねているのだろう。 しばらくゼロは恐ろしいほどの沈黙を保ち、立ち尽くしていた。 と、その時アリスが鋭く声を上げた。 『ゼロさんっ! あれは……あの光は?』 黒く塗りつぶしたような夜闇にぽつんと浮かぶ若葉色の小さな光。それは音もなくこちらに向かってきていた。水面すれすれを滑るように飛んでいる。 「あれって、もしかして!」 その鮮やかな緑色ですぐに分かった。あの光は海の大妖精の一部、はぐれた妖精珠だ! ゼロは途端に駆け出した。 『あ、ちょっと待ってください!』 彼はうっかり失念していた。彼が先ほどまで立っていたのは海沿いの岩場で、あの妖精珠がいる方向は正真正銘の海だということを。 彼よりよほどしっかり者で頼りになる妖精のおかげで踏みとどまれたものの、ゼロは岩の凹凸につまずいて勢いよく転んでしまった。 ←*|#→ (12/132) ←戻る |